希少な軍艦組の記録①㊤ 力行会員が軍艦でブラジルへ

希少な軍艦組の記録①㊤ 力行会員が軍艦でブラジルへ
軍艦ソアレス・ドウッツラ号(斎藤光さん提供写真)

大きかった石川島重工業の存在

 昨年、創立100周年を迎えたブラジル力行会(岡崎祐三会長)。その会員として1950年代に、軍艦(ブラジル海軍用輸送船)3隻で計75人(各25人)が渡伯した。力行会が軍艦でブラジルに移民を送るプロジェクト実現のために尽力した、駐日ポルトガル大使秘書官、伯国海軍の駐日戦艦建造委員長、日本力行会、パウル・タンキス(アメリカ(米)人)という仲介人の存在も浮かんできた。「軍艦組」と呼ばれる75人の力行会員のうち、米州で存命しているのは10人。伯国各地、米国ロサンゼルスや、アルゼンチン・ブエノスアイレスで活躍している同会員もおり、各艦の中には「同艦者会」が行われた記録も出てきた。サンパウロ(聖)州、リオ州で健在な会員に当時の話を聞く中で、通常の移民船とは異なる航路での渡航や、艦内の様子、着伯後の力行会員とのつながりなど、数少ない軍艦組の声を記録した。

◆軍艦組の実現

 「軍艦組」が実現した一因となったのは、石川島重工業(現IHI)の存在だった。港湾都市リオデジャネイロが首都である最後の時期に、日本初の海外造船所・イシブラス建設を受注・着手し、日本重工業の海外進出を先駆けた。そんな同社が、ブラジル海軍から軍艦4隻を受注したことに始まった。その際、石川島重工業と伯国海軍の仲介人を務めたのがタンキス氏だ。タンキス氏は戦時中にブラジル海軍に派遣され軍事顧問や大尉を務めていたため、ブラジル海軍に強力なコネクションを持っていた人物だとされる。タンキス氏の仲介によって同社が受注し製造した軍艦のうち、3隻の処女航海に力行会員が乗船することになる。

 1954年12月23日に東京晴海桟橋を出帆した軍艦「クストジオ・デ・メーロ号」に乗船し、力行会員としてブラジルへ渡った25人の一人、高木登さん(83、愛知)。高木さんは、大学時代を東京の日本力行会寮で過ごしていた最中、ブラジル協会の広告の貼り出しを見て渡伯を決意し、その広告を寮にいた日本力行会の理事に本当かどうか確認したという。

 同時期に、完成した軍艦がブラジルへ引き渡される話を、緑川孝弘駐日ポルトガル大使秘書官が力行会へ持ち込んだ。その後、石川島造船所内にある伯国海軍の駐日戦艦建造委員長のギラマンエス大佐に、緑川秘書官と日本力行会が同会員の便乗を交渉した末、伯国海軍本部からの許可を引き出すことに成功した。

 緑川秘書官が「伯国のために命を捧げる覚悟の青年が30人いるが、近々ブラジルへ引き渡される軍艦に、ぜひ便乗をお願いしたい」と熱弁を振るったと、「戦後移住の50年」に記録が残されている。(戸)(つづく)

2018年3月23日付

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