【移民107周年】平野運平ゆかりの地 静岡県浜松市天竜区

甫さん(左)と佐千子さん、平野家にて

【山崎功祐浜松支局長】「『井戸塀(イドヘイ)』という言葉があってな。明治の日本の政治家、特に地方の政治家には、こう呼ばれる人が多かった。私財を投じて、道路や橋をみんなのためにと作るものだから、貧しくなり、井戸と塀しか残らないという意味だ」―。静岡県浜松市天竜区にある清瀧寺の元住職、横井良正さん(77)は、語る。1998年1月31日、同区内で日本人とデカセギで来日した日系ブラジル人らが合同で行った平野運平の供養祭で、横井さんは住職として参加し、供養を行った。

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「運平の生涯を考えると、当時の日本の政治家と同じ気質を運平も持っていたのだと思う」と横井さんは語る。

同区は、運平ゆかりの地だ。運平が東京外国語大学に進学する前に、養子入りした平野家がある。平野家がある場所は当時、光明(こうみょう)村と呼ばれていた。同村は、大手自動車メーカーの創業者、本田宗一郎の出身地でもある。

現在の平野家には、運平の甥にあたる甫(はじめ、92)さんと妻の佐千子(84)さんが住んでいる。2人とも運平に直接会ったことはないが、運平について尋ねると、「かずへいさんのことかい?」と、運平が養子に入ってから渡伯するまでの話を聞かせてくれた。甫さんによると、渡伯前の運平は「かずへい」と呼ばれていたそうだ。

運平は当時の小笠郡、現在の掛川市の生まれで、養子入り前は「榛葉(しんば)」姓だった。榛葉家は、元は資産家だったが、運平が大学進学を希望した頃は、学費を賄えるだけの財力は既になかった。そこで、親戚の平野家に養子入りをして、平野家が運平の学費を出すことになった。当時の平野家当主の吉郎平(きちろうへい)は、人の頼みは断れない懐が深い人物として知られていたそうだ。

榛葉家と平野家の関係について、運平よりも前に運平の叔母が平野家にいたという記述がされている運平関連の資料があるが、甫さん夫妻の話とは異なる。夫妻の話では、既に平野家にいたのは叔母ではなく、運平の妹であり、甫さんの母親にあたる、てい。ていより前に、運平の親族が嫁入りした話は聞いていないという。運平は、ていの養子として平野家の一員となった。この時、ていは10歳前後であったと思われるが、当時この年齢での嫁入りは珍しいことではなかった。つまり、夫妻によると、運平は実の妹の養子になったという。

ただ、平野家には既に、ていの夫で、後に光明村長を務めることになる廉策がいた。跡取りがいるのに、なぜ運平を養子にしたのかという点については、諸説ある。清瀧寺元住職の横井さんは、「学費を出してもらうにしても運平には恩返しできるものがなく、立身出世して、平野家をより大きくすることで恩返しすることを当主の吉郎平に提案したのではないか」と考えている。

養子入りした後も平野家で生活はしなかった運平だが、渡伯直前に平野家を再び訪れ、「10年ぐらいで戻る」と告げて日本を発った。運平は自らの出世で平野家への恩返しをするということを、ブラジルでも常に胸中に持ち続けていたのかもしれない。

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運平が築いた日伯の絆 顕彰活動で深まる交流

90年代にブラジルから日本へのデカセギが始まってから、言葉や文化が違う日本人住民とブラジル人住民との共生は全国の自治体の課題だった。現在でも、ブラジル人児童の日本語教育など、課題は続いている。

天竜区にも多くのデカセギのブラジル人が来日した。他の自治体と同様に、同じ土地に住んでいるのに日本人とブラジル人の交流がないという課題が出たが、同区では運平の顕彰活動を通して住民間の交流が深まった。

ブラジル日本移民90周年祭が行われた98年、同区では運平を顕彰するための3事業が行われた。供養祭、光明山遺跡内での「拓魂」碑の建立、フットサル(サッカー)大会「運平カップ」の3事業だ。

各事業は日本人とブラジル人が協力し、精力的に行われたが、実は日系ブラジル人から知らされるまで、運平の存在を知る日本人はほとんどいなかったという。

同区で最初に運平の顕彰活動を始めたのは、伊勢屋スポーツ店の店主の太箸稔さん(故人)。太箸さんは日本のフットサル普及の功労者で、当時、同区に住んでいた安光マリオさん(65、2世)と交流事業を行う中で、「大河(おおかわ)さん」というデカセギで来日していた人物から運平の話を初めて聞いた。後日、運平の浪曲テープを同氏から借り受け、夜、独りで泣きながら聴いたという。その後、自身で運平に関する調査を始め、顕彰活動にも尽力した。

太箸さんが声を上げた顕彰活動に積極的に協力した柏崎吉蔵さん(74)は、「もしブラジル人が来なければ、運平を知らないままでいた。私は日本人で、自分が長く住んでいる土地の有名人なのに、ブラジル人から教えてもらって恥ずかしかった」と微笑む。また、日本人とブラジル人の交流が深まっていった際、「天竜区は、平野運平と本田宗一郎のゆかりの地。ここは、日系ブラジル人のメッカだ。この土地で悪さをするブラジル人は絶対にいない」とブラジル人が約束してくれたことが心に残っているという。

運平がこの世を去ってから70年以上がたった今、同区で日本人住民とブラジル人住民の距離が縮まった。これも、優れたリーダーシップで移住者を導いた運平が、この世に残した功績の一つとしても良いのではないだろうか。(一部、敬称略)

2015年6月20日付[/toggle]

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