文協 図書・映画便り 2017年5月25日付

中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』

 この本をいつ手に入れたのか覚えていない。2001年初版印刷とあるから、それよりは後のことだろう。何度も読み始めては途中で投げ出していた。西田幾多郎(にしだきたろう)とともに京都学派を代表する哲学者、田邊元(たなべはじめ)の思想について論じた著作だが、極めて難解なのだ。今年意を決し、3部12章からなる全体の第1部だけはとにかく読み切ろうと読み始め、先日、何とか読み終わった。

 第1部は田邊の「種の論理」について書かれている。「種の論理」についての論考が著されたのは主に1930年代だが、日本が軍国主義化・全体主義化し、日中戦争から太平洋戦争へと突入していく時代である。全体主義やファシズムは欧州でも同時に起きていたことだ。19世紀に資本主義が大きく発展し、貧富の差拡大などその歪みに対する反動として共産主義や社会主義思想が登場した。思想的には近代の「人間」や「個人」が平等な立場で「国家」や「社会」を安定的に成立させるという考えだったのだが、実のところは反対に「個人」は不安で不安定なものとなった。これらの流れを受ける形で登場してきたのが「国家」を強調するファシズムであり全体主義である。

 まさに現在、世界は当時と似た状況にある。グローバル化とともに資本主義がさらなる世界的浸透を見せる中、意識的または無意識的にこれに対抗して出てきたのが、右翼勢力であり、排外主義であり、イスラム原理主義であろう。日本も例外ではない。増殖するヘイトスピーチ、隣国を必要以上に敵視した外交政策、新安保法案、近々成立するであろう共謀罪法案などがそうだ。

 これらの動きは、田邊が考えた「種」への揺り戻しなのである。極度に発展した現在の資本主義は世界中にグローバルスタンダードを求める。これが、自分が生まれて出てきたところの文化や習俗などを含む「種」から切り離された「個」を不安にするのだ。不安な個人の前に偽物の「種」すなわち「国家」が「自分を拠り所にせよ」と呼びかける。この状況を理解し、もし打開しなければならない場合その道を示してくれる可能性のあるのが田邊の「種の論理」なのである。

 田邊は国家をどのようにあるべきものと見ていたのか。

 「…国家は種的共同社会がこの自由自主性と否定的に統一せられた被媒介態であって、基体種を主体個によって否定即肯定せる類に相当する。それはかかる綜合態として最も具体的なる統一であり、それにおいて種が止揚せられ維持さられるごとく、個もまたそれに対立しながらかえってそれらにおいて具体的に自由を保持し、自主的に存在するのである。国家に止揚せられた種は、個の平等化を媒介としてそれ自身も平等化せられ、種の異別を含んで一様なる人間の特殊即普遍的なる統一を形造る。国家を離れて個人が抽象に止まること、種の共同態が抽象なると同様である。種に対する否定的契機としての個は我性の分立を意味するに止まり実存するものではない。これを単に否定した理性的人格の「目的の国」もまた抽象たらざるを得ぬ所以である。個人は国家においてのみ実存すると同時に、国家は個人の自主自由を媒介としてのみ国家となる。この媒介を失えば単なる民族の共同態にすぎない」(「存在論の第三段階」より)

 私自身、まだきちんと理解しているとは言えないが、さらに先へ読み進めて理解を深められればと思っている。

 さて、去る4月30日に行われた「文協・秋の古本市」では、史上最高となる1000人近い来場者がありました。ご来場下さった皆様、御礼申し上げます。

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2017年5月25日付

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