日・韓・伯の混成が「私」㊤ 13年間のアイデンティティーの苦悩

日・韓・伯の混成が「私」㊤ 13年間のアイデンティティーの苦悩
アクリマソン学園から山梨県へ交換留学をした当時15歳の明美さん(写真中央、本人提供、1995年撮影)

「自分はどこの文化にも属さない」

日・韓・伯の混成が「私」㊤ 13年間のアイデンティティーの苦悩
大学卒業後、兵庫県のアートカレッジ神戸で県費研修を行う明美さん(本人提供、2005年撮影)

 日本人の父と韓国人の母の間に、ブラジルで生まれた明美さん(38、2世)。明美さんが語るように、多くのアジア系の子孫がアイデンティティーに苦悩し、自分のルーツを否定してしまうが、彼女は「自分のルーツとなる全ての文化の美しさを学びたい」と語る。そうした一人の「私」の半生を語ってもらった。

 明美さんは1979年にサンパウロ(聖)市内で生まれた。当地の学校と日本語学校のアクリマソン学園に通い、家庭では日本人の父と韓国人の母に加え、母方の祖父母と共に暮らした。現在でも明美さんは母と韓国語で会話をしており、祖父が聴いていた韓国の伝統音楽を覚えているという。

 アクリマソン学園では、「あなたの父は日本人なんだから日本文化も学びなさい」と語りかけた熱心な日本語教師にも恵まれ、語学や書道、折り紙、茶道、生け花だけでなく、時間を守ることや礼儀も学んだ。読み書きは韓国語よりも日本語の方が得意という明美さんは、「あのアクリマソン学園の先生がいなかったら、今の私はない」と語る。

 家庭では韓国の文化が耳から入り、家庭外では日本の考え方を頭で吸収していたという。しかし、一人の人間が異文化の狭間で生きていくことは、それほど単純ではなかった。

 明美さんは15歳から「自分はどこの文化にも属さない」と気付きはじめ、自分を見失った。自殺も考え、精神科にも通った。専門家に会い、話を聞いてもらうことは確かに必要なことだと感じたが、行き着いた答えは「誰も私を理解できない」ということだった。こうした苦悩はその後、13年間にわたって続いていくことになった。

 明美さんの姉も同じ境遇だった。パニックを起こした彼女は米国の高校へと進学した。しかし、米国の高校でも日本人のグループ、韓国人のグループ、ブラジル人のグループに分かれ、彼女はどこに入るのかが分からなかったそうだ。「どこにも合わない、違うということこそを誇りに思いなさい」と教師に言われ、彼女は帰国後、英語やスペイン語という「中立の」言語に傾倒していった。

 一方、明美さんは米国には渡らず、聖市内の中学、高校へと進学した。中学校時代には、路上で異性に声を掛けられた時には「よく見ろ、アジア人だぞ」、「final de feira(売れ残り)」と差別を受け、高校生の時には常にアジア系と非アジア系の見えない境界を感じた。非アジア系の生徒が誕生日パーティーへ、自分たちだけを招待してくれなかった時の情景は今でも忘れられないという。

 大学に進学し、韓国人の彼氏ができるも、家制度の強い文化に馴染めず、相手の両親に、自分の父が日本人であることを気にされ、挙句には彼氏の男尊女卑的な考え方と衝突し、顔を叩かれ、トラウマを背負った。

 取材中、明美さんは幼少期からの写真が並んだアルバムを広げて見せた。写真のどれを見ても明美さんの顔には笑顔がない。特に、学生時代の明美さんはどこで写真を撮られようとも漆黒の虚(うつ)ろな瞳をレンズに向けていた。

 明美さんはその後、2005年から兵庫県の県費研修生として日本へ渡り、専門学校アートカレッジ神戸でデザインを学んだ。

 父の生まれ育った日本で、先端のデザインを学びながら、少しずつアイデンティティーについて苦悩することは減っていったものの、そこで撮影された写真に映る彼女の顔にも笑顔はなかった。(つづく)

2017年8月25日付

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