日本から最も遠い移住地㊤ パラグアイ最大規模のピラポ

日本から最も遠い移住地㊤ パラグアイ最大規模のピラポ
篠藤会長と佐藤事務局長(左から)

農業、インフラなど改革続けて成長

日本から最も遠い移住地㊤ パラグアイ最大規模のピラポ
移住地開設のテープカット(1960年7月18日、ピラポ移住史料展示室提供)

 今年8月2日で入植58周年を迎えたパラグアイ・イタプア県のピラポ移住地(旧アルトパラナ移住地)は、移動手段の都合上、「日本から最も遠い日本人移住地」と言われている。1961年創立のピラポ日本人会(篠藤真喜男会長)が8万4000ヘクタールに及ぶ移住地の行政、教育、文化事業など様々な業務を兼任し、市役所とともに移住地のまとめ役を担っている。現在は218家族が生活しており、「蘭の都」を目指すなど活発な活動を展開する同地の今を、同会の篠藤会長(64、愛媛)、佐藤満事務局長(61、岩手)に聞いた。

 1960年7月に日本政府の直轄移住地として開設されたピラポ移住地は、同年8月2日に第1次移住者として高知県出身者の家族26世帯が入植したことに始まる。65年の第28次移住者までで331家族、1793人が入植した記録が残されており、日本が東京五輪開催による好景気に沸く中、同年で同地への移住は終了した。当初は原始林の開拓に苦労して帰国する人や、パラグアイの都市部、ブラジル、アルゼンチンといった隣国への転住者も多かったという。

 移住者は永年作物栽培を念頭に、柑橘類の栽培に着手したものの、病気の蔓延により、船舶用塗料などの原料になる油桐(つんぐ)や綿花栽培、養蚕業へ政策転換。70年代後半、大型農機械の流入を機に、大豆を中心に、アルゼンチンから輸入した小麦など農作物生産へと移行した。90年代には黍(きび)や菜種の生産にも取り掛かり、現在では農産物の大半で輸出国になるまで変貌を遂げたパラグアイを同地も支えてきた格好だ。篠藤会長は「三毛作も可能な肥沃な土地だが、寒さに強い作物である必要があったはず」と振り返る。現在は大豆と小麦の二毛作で、副作としてトウモロコシ、ひまわり、菜種を扱うのが主流になっている。

日本から最も遠い移住地㊤ パラグアイ最大規模のピラポ
ピラポ橋落成式に出席したストロエスネル大統領(前列右から3人目、1961年、ピラポ移住史料展示室提供)

 そもそも、「ピラポー」とは、「(手掴みができるほど)魚が跳ねる」という意を持ち、日本人移民の入植前には、人が住む場所という認識は無かった。そんな同地の開拓後、更なる発展に欠かせなかったのが、インフラ整備だ。中でも近郊都市エンカルナシオン市に向かう道中にあるパラナ川を越えるための橋が不可欠だった。61年5月9日、パラグアイ初の鉄筋の橋としてピラポ大橋が開通し、落成式にはアルフレッド・ストロエスネル大統領(当時)も出席して同会館に植樹を行うなど、国を上げた一大行事となった。篠藤会長は「国が期待していたことが良く分かる。大統領は普通、橋の落成式には来ない」と語る。85年には、移住地全戸に電気が通るなど、インフラ整備が徐々に整っていった。

 入植58周年を迎えたピラポには現在、218家族約1300人の日系人が居住しており、同地全体で7000人が暮らしている。同地には当初、日本人移住者のみが居住していたが、発展するにつれ、仕事を求めるパラグアイ人の入植が相次いだ。現在では同地居住者の約8割がパラグアイ人になる。(戸)(つづく)

2018年9月14日付

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