日本とペルーの架け橋「ペルー最後の侍」㊥

日本とペルーの架け橋「ペルー最後の侍」㊥
妻のカルメン、長女の菊枝、その夫のマルコ・ファン、津村、長男の光春、その彼女のマリアナ(右から)

株式会社ミッキーツアー 代表取締役社長 津村 光之

 津村の功績だけを抜き出すと、いかにも順風満帆の人生を歩んできたかに見えるが、そうではない。

 大阪府堺市出身の津村は、関西学院大学在学時にオイルショックを経験。予期せぬ就職氷河期の到来により、思い描いていた大手企業に就職が叶わず、地元大阪府のメーカーに就職した。しかし、入社後間もなくシカゴに駐在するチャンスを得る。思い描いた就職ではなく、無念さが残る中でのシカゴ行きが決まった時の嬉しさは今でも鮮明に覚えているという。初めてシカゴを訪れた時、「当時の日本に高層ビルなどは少なく、高層ビルが立ち並ぶシカゴの近代都市としての姿に圧倒された」と世界一の経済大国の姿に感銘を受けた。シカゴに2年間駐在後、会社を退職した。叔父の旅行会社へ呼ばれて移住。

 ペルーで旅行会社を営んでいた叔父の呼びかけに応じて1978年12月にペルーに渡航した。到着当初、清潔な日本との環境の違い、治安の悪さなどから、1日も早く日本に帰りたいと思ったという。最初は日系社会との繋がりはほとんどなかった。ペルーの日系社会に日本語を話せる人が少なく、スペイン語ができなかった津村は語学の壁で関係を深めるには至らなかった。仕事で関わることが少しある程度だった。

 戦後のペルー日系社会は、戦時中収容され、財産を剥奪されている。こうした苦い時代を経ており、戦後日本から駐在で来た日本人の羽振りの良さに嫌悪感があり、日本人に対しての拒否反応があったため、新参者は同朋意識を持ってもらえなかったのだという。

◆84年に独立し、旅行会社設立へ

 84年、叔父の旅行会社を退職したのを機に起業を決意し、旅行会社ミッキーツアーを立ち上げた。日本がバブルに向かって高度経済成長を続ける中、海外旅行に出る日本人をターゲットにした。日本の旅行会社ができないペルーの国内部分の手配を引き受け、事業拡大を目論んだ。日本の旅行会社、日本人観光客に日本と同じサービス精神を持った「ペルーを良く知った日本的企業」として信頼を高めていった。その信用を基盤にして、ペルー社会に本格参入したのは、日本のバブル崩壊後の95年頃からだった。日系商工会議所の役員に就任したのを機に、そこで掴んだ人脈を生かし、日系人・ペルー人との付き合いが増えた。

 また、時代が変遷し、日秘2国間だけではなく、国境のない世界でのビジネスが求められる時代へと移った。ペルーにある日本的な精神を持つ会社だから海外からも信用を得られる。対日本だけではなく、色々な国に対して、世界一である日本のサービス業は提供・輸出できる価値があると胸を張る。「日本の技術は真似できるが、教育が必要になるサービスやソフト面は真似できない」と太鼓判を押す。今後もペルーの地場企業として、世界に日本のサービス業を提供していく構えだ。

 ミッキーツアーの従業員は55人。外国系の大手資本参加の旅行会社が多いペルーで独立系の旅行会社は日系のミッキーツアーとドイツ系の1社の計2社しかない。もちろん、日系ではトップの座を維持し、他社の追随を寄せ付けない。その秘訣は、津村の日本的サービス精神であることは言うまでもない。

◆家庭では1男1女の良きパパ

 仕事ばかりではない。家庭が津村を支えた。叔父の会社で働く傍ら、社内の友人の紹介で出会った日系2世のカルメンと結婚し、その後、長男光春・長女菊枝と子宝にも恵まれ、子供の進学を機に、ペルーへの永住を決意した。子供達には国や企業が守ってくれる日本とは違い、何もかも自分自身で守っていかなければならない社会で、自力で生きていく意志と能力を身に付けさせた。長男はアメリカで調理を学び、リマ市内のミラフローレス地区に「Maido」という和食レストランを開業。世界第8位に選ばれるほどの人気店にまで成長し、混沌としたペルー社会を生き抜くすべを存分に身に付けた。(敬称略、つづく)

2017年7月26日付

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