【移民108周年】日本初の銅メダリスト・内藤克俊 「世のため、人のため」に送った生涯

日本初の銅メダリスト・内藤克俊 「世のため、人のため」に送った生涯
オリンピック出場時の内藤(左)
日本初の銅メダリスト・内藤克俊 「世のため、人のため」に送った生涯
オリンピック出場時の内藤(左)

 近代オリンピックで初めて日本に銅メダルをもたらした人物が、ブラジルに移住していたということはあまり知られていない。1924年のパリ・オリンピックのレスリング競技で銅メダルを獲得し、ブラジル移住後はモジ・ダス・クルーゼス産業組合の理事長として活躍した内藤克俊である。南米大陸初のオリンピックが開会する今年、偉大な銅メダリストであった日本人移民の生涯とはどのようなものだったのか振り返ってみたい。(一部敬称略、佐久間吾朗記者)

 内藤克俊は1895年2月25日広島県広島市で、陸軍少尉の父克明と母アサの次男として生を受けた。早くに両親や長兄を亡くし、7歳の時に当時日本の植民地だった台湾へ嫁いでいた10歳年上の姉の下へと渡った。幼少時は泣き虫でひ弱だった内藤だが、台北武徳殿の竹内師範から柔道を習い始めるとひ弱さは鳴りを潜め、次第に柔道に没頭していく。

 帰国後は鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)に入学。勉学と柔道に打ち込む中、ブラジルへの移民が多かった土地柄もあり、この頃からブラジルへの移住を意識するようになる。

 農林学校を卒業した1919年には、ブラジル移住を見据え渡米。農場で働いた後、21年ペンシルバニア州の州立大学園芸学部に入学する。内藤はそこで初めてレスリング競技と出会う。レスリング部に入部した内藤は、柔道の足技を生かしすぐに頭角をあらわした。

 24年には全米大会で優勝し、レスリング部の主将になると「キャプテン・ナイトー」の文字が連日新聞に掲載され、「タイガー・ナイトー」の愛称で呼ばれるようになる。当時の米国内では排日移民法が施行され、西海岸の日本人たちはひどい人種差別に見舞われていた世相で内藤が主将に選ばれたのは、自身の品格や人徳によるものだろう。内藤の活躍はワシントンDCの埴原(はにはら)正直駐米大使の目に留まり、同氏の推薦でパリ・オリンピックへの出場が決まった。

 6月に同大学を卒業すると、アメリカ選手団と同じ船でパリに向かった。しかし、船内での練習中に左手の人差し指に怪我を負ってしまう。大会本番では62キロ級グレコローマン・スタイルと61キロ級フリースタイルに出場。62キロ級では8位に終わるが、フリースタイルでは見事3位決定戦を勝ち抜き、日本に初めての銅メダルをもたらした。大会中は危険な減量にドクターストップがかかったこともあったが、「日本のレスリング選手は自分しか来ていない」と己を奮い立たせ、指の怪我を乗り越えて銅メダルを獲得した。同五輪の日本勢では唯一のメダル獲得者で、日本史上初の銅メダル獲得となった。

 日本へ帰国後は再び台湾へ移り、現地で出会った千代子夫人と結婚。長男克寛氏の誕生後、28年アマゾン河口の南米拓殖株式会社の農場長として、念願だったブラジルへ一家で移住した。しかし、入植直後に内藤はマラリアにかかってしまい、ほどなくサンパウロ(聖)州スザノに転居。当時は水道も電気もない荒野だったスザノで、苦労しながらも果樹栽培に取り組んだ。モジ・ダス・クルーゼス産業組合の理事長として活躍し、存続の危機に瀕した際は仕事を投げうって再建に奔走した。

 農業と組合の仕事に忙殺される一方で、柔道の指導も無償で63歳まで行い、当地での柔道普及に貢献した。アメリカの大学を卒業したことやオリンピック銅メダリストだということを周囲には明かすこともなく、ひたすらに働き、柔道の指導を続けた。

 64年には夫婦で35年ぶりに日本に里帰りし、東京オリンピックの開会式に出席。柔道とレスリングを観戦した。

 69年5月には講道館から講道館7段が贈られ、その年の9月27日、動脈硬化と脳出血で74歳の生涯を閉じた。翌年にはスザノ市内に内藤の名を冠した通りができ、95年には内藤の偉業を称え、ペンシルバニア州立大学からプラッカが贈呈された。現在、内藤は聖市内の墓地で、眠りに就いている。

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日本初の銅メダリスト・内藤克俊 「世のため、人のため」に送った生涯
ラグスさんとタルシーラさん(左から)

 内藤は6男2女、計8人の子供に恵まれた。4男のラグスさんは聖市内で暮らしている。

 ラグスさんは「父は人間形成においてスポーツが最も重要と考えており、何よりもスポーツを大切にしたスポーツマンだった」と生前の内藤について回想する。また「物質的なことより、人のために尽くす高尚な精神が重要だと言っていた」といい、「世のため、人のため」と生きた内藤の生き方がその言葉から伺える。

 ラグスさんの娘のタルシーラさんは「祖父が日本人初の銅メダリストだということは光栄。ブラジルで愛する柔道をして、人のために働いたことは素晴らしいことだと思う。できれば会ってみたかった」と対面を果たせなかった祖父について語った。

 タルシーラさんの娘で7歳になるオリビアちゃんは現在柔道をやっており、曽祖父である内藤の話をいつも聞きたがるという。話して聞かせると「ひいおじいちゃんを本当に誇りに思う」と笑顔を見せるそうだ。

 「今ではブラジルで柔道がとても盛んで、オリンピックで伯国が金メダルを獲った数は柔道が一番多い。小学校の授業ですら柔道がある。しかし、突然盛んになったわけではなく、少しずつ歩みを進めてきた。それはすべて父から始まったもの」とラグスさんは話す。「今では誰も父のことを覚えていないが、彼の足跡がブラジルに根付いていることを本当に誇りに思う」と内藤の偉業を偲んだ。

【参考文献】

 「小錦が憧れるある日本人」(日刊スポーツ、宮澤正幸著)、「アメリカで尊敬を集めた日本人留学生」(月刊レスリング1994年6月号、宮澤正幸著)、「ブラジル柔道のパイオニア」(石井千秋著)、「日本ブラジル交流人名事典」(パウリスタ新聞社)。

2016年6月25日付

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