日本統治下の台湾を生きた人々㊦

女手一つで子供育てた母を偲び

日本統治下の台湾を生きた人々㊦
日本統治時代の台北市文武町台湾総督府前(現在は重慶南路)。人力車が通り、和服を来た人の姿もある(『台北古今図説集』台北市文献委員会出版より)
 1932年に生まれ、幼弱だった台湾人女性のAさんは、台湾の日本統治末期を新竹県六家庄で過ごした。父は家族を養うために懸命に川で魚を釣ったが、肺を病み、家族を残して他界した。Aさんの母は女手一つで、子供4人を育てあげた。

 「母は苦労したと思います。父の葬式でお坊さんがお経を読んだのを、弟が空き缶を叩いて真似事をしたのを覚えています。母はその時、どれだけ心を痛めていたでしょうか」と語る。

 公学校では「日本人と台湾人の教師が働いていて、教育勅語を読み、黙とうを捧げ」、「学校で教わった歌はほとんど軍歌、あるいは隣組の歌だった」という。毎朝の朝会では「戦勝の報告」があり、Aさんはそれを聞きながら「貧血を起こし、気を失い、医務室に運ばれた」こともあったそうだ。

 戦時中、約20万人の台湾人が日本兵として徴兵された(Wikipedia掲載の日本厚生労働省援護局資料、1990年発表分による)が、働き手の不在や疎開などで、新竹県でも「物資が不足し、食糧も少なく」、「配給された1カップの米を家族5人で分けた」り、「遠方まで闇米を買いに行く」などして、なんとか食いつないだ。

 Aさんは、「終戦が近くなった45年は、毎日のように米軍の戦闘機による空襲があった」という。「朝の8時頃にサイレンが鳴ると、母は私たち兄弟姉妹4人に着替えの服を背負わせ、一足先に裏山の防空壕に避難させた。母は後から芋や豆の葉が入った水っぽいお粥を担いできたが、正午になるまで絶対に食べさせなかった。早く食べると、すぐお腹が空いてしまうから」と当時の生活の過酷さを振り返った。

 終戦を告げる玉音放送は台湾でも流れたが、この日はAさん含め多くの台湾の人々にとって、唐突に「日本人」から「中国人」に変わることを意味した。

 「何で日本はあんなに小さい国なのに戦争をしてしまったのでしょうか。世界中の人が楽園のように暮らせればよかった」と語るAさんはその後、台北で小学校の教師を務めた後、売店を開き、練乳かき氷を販売するなどして生計を立てた。

 Aさんは「今思えば大胆でした」と語るが、70年に夫婦で渡伯。当初はスカーフを美容院の前に置かせてもらって販売していたが、売り物や私物の時計など全部騙し盗られてしまったこともあったそうだ。

 鶏を食肉に加工する商売に転向したところ、誠実な仕事ぶりを見た客の間で「日本人は正直だな」と評判になり、隣の地区から買いに来る客も現れ、「1週間にトラック1台分ほど売れ」るようになり、苦労が報われた。

 その後、食品販売業の傍ら、日本語で書籍を読み、執筆活動も続けてきた。

 Aさんは「ここ(ブラジル)の日本人は良い人ばかりです。もっと日本人が来たらいいのに」と話し、優しく微笑んだ。(おわり)

2017年6月8日付

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