【移民106周年】来伯55周年を迎えて コチアの夢をかなえた夫婦

豊作の小麦畑で笑顔の芦川夫婦

第1回花嫁移民の芦川道子さん

 1959年4月23日、「第1回花嫁移民」として「あめりか丸」でブラジルに渡った12人の花嫁たちは今年来伯55年目を迎え、4月26日には55周年記念同船者会も開かれた。この節目の年に第1回花嫁移民の一人、芦川道子さん(79、静岡、旧姓・佐野)を改めて紹介したい。彼女は、今は亡き夫・芦川博幸さん(享年72、静岡)と同郷の静岡で出会い、結婚を約束。コチア青年(1次7回)として先に渡伯した博幸さんを追って夫婦となり、日雇いや歩合作で生計を立てながら、夫の夢だった大農場経営を目指して2人で奮起した。晴れて夢を実現させた夫婦の人生をここで振り返る。(倉茂孝明記者)

【同郷での出会い】
「船が岩壁につくや甲板上の花嫁と岸壁の花婿とがそれぞれ自分たちの『夫』『妻』を確認し合い再会、初対面のちがいこそあれ共に感激にホホを紅潮させていた」―。 

 1959年4月23日、サントス港に到着し、コロニアに新たな歴史を刻んだ第1回花嫁移民たちの来伯の様子を本紙の記事はこのように伝えている。

この時「再会」を果たした芦川夫婦は共に静岡県沼津市出身。同市平沼で茶や野菜を栽培する農家の子どもとして生まれた道子さんは、小学4年生で終戦を迎え、市内の女子商業中高一貫校を卒業後、父の誘いで家業の手伝いを始めた。    一方、博幸さんは道子さんの隣町荒久で育ち、地元の青年会では文化部長を務めた。当時運動部長を務めた道子さんの兄と仲が良かったため、家によく遊びに来ていたといい、それがきっかけで二人は知り合った。
(写真左=第1回花嫁移民の当時の様子を伝える本紙(1959年4月25日付))

【遠距離】
その後二人は青年会の仲間たちと一緒にサークルを立ち上げ交流を深め、次第に交際を重ねていった。博幸さんは57年1月17日に1次7回のコチア青年として来伯する前、道子さんの父に対し、「何も知らないブラジルに行きますが、(道子さんに)来てくれと言った時には反対しないで気持ちよく送り出してくれますか」と結婚を申し込んだ。

 渡伯後は文通を重ねた2人。博幸さんは「金のなる木はないと思って来い」と、大変な生活が待っていることを伝えて来たが、道子さんは渡伯を決意する。

 父さん子だったという道子さんは「父とは気が合い毎晩のようにおしゃべりをしていた。父は『(博幸さんが)そんなに言うなら結婚を許すしかないだろう』と認めてくれていたが、見送りに来てくれていた父は出港前には顔を見せなかった」といい、それでもブラジルに骨を埋める覚悟でやってきた。

【船中】
そんな道子さんの船の旅は大変なものとなった。船の中でたばこの管理役を務め、乗組員の健康のために働いていた道子さんだが、自身が盲腸となって体調を崩し、寝込む生活を送ることになった。
特に、赤道やパナマ運河を通過する際には皆が外に出て見ているのに耐えかね、「病室から抜け出して見に行ったが、結局医者に呼び戻されて満足に見ることが できなかった」という道子さん。「当時はおとなしかったのだけれども」と笑みをこぼしながら振り返る。中には、内緒で病室にミカンなどのお見舞いを持って 来てくれる仲間がいたといい、「皆に愛されていた」と笑った。

◆始まった結婚生活

【日雇い】
サンパウロ(聖)市のサント・アマーロ区で始まった新婚生活と、日雇い生活。道子さんは、「夜は外に出て星を見て『この天の川に乗って日本へ帰りたい』と 思い涙した日は少なくない」という。「厳しく育てられたけれども、やっぱり故郷はいいなと思っていた。けれども、決心してやってきた以上泣きごとは言えな いと思って頑張った」。

 同年12月、将来を考え聖州エリアス・ファウスト市に移り住んだ2人に、翌年3月待望の子どもが 誕生する。生まれる日まで畑で働いていたという道子さんは、「畑と家をつなぐ坂道を毎日上り下りしていたからか、予定日よりも2週間早い出産だった」と当 時のエネルギー溢れる生活を振り返る。

【歩合作へ】
第一子誕生の15日後、エリア ス・ファスト区付近に移り住んで始めた歩合作では、当初6000本のトマト栽培から始まった。1人3000本で十分だと一般的に言われていたが、2作目に は2人で1万本を栽培。「これは一生懸命頑張ったからできたこと。昼に畑仕事ができるよう、販売時に必要な木箱を夜に作ってしまい、さらにはパトロンのも のも手伝っていた。忙しかったが、働き者として信用を得ることができた」と話す。

【大農場へ】
よく育ちいい値段で売れたトマト栽培で生計を立てた芦川夫婦は、今度はインダイアツーバ市で3家族を受け入れながらの大規模なトマト栽培を始めた。

 道子さんは、独身時代の病院での勤務経験を生かし、持ってきた注射やペニシリンの処方などを皆にしてあげたそうで、「人を助けてあげたりするのが好きだった」と振り返る。

 博幸さんを気に入った人からエリアス・ファウスト区の土地を買うと、今度は30家族を受け入れながら、1年を3回に分けて10家族ごと交代しながら1年中作物を作れるよう経営した。

【コチア・セラード開発】
そして、1972年、コチア産業組合がミナス・ジェライス州サンゴタルド市のセラード開発に着手するとついに夢をかなえるチャンスがやってきた。

  博幸さんは土地の見学会に参加し、2回目に見に行った時には1000ヘクタールの土地を買う約束をしてきてしまった。現金での支払いが条件で、払える当て もなかったが、「ブラジルに来たからには大きな土地で機械を使って農業をやりたい」という夫の強いあこがれや夢が2人を突き動かした。
(写真右=今年4月26日に行われた55周年記念あめりか丸同船者会)

 その時には家族は娘3人息子1人の6人家族となっていたが、「まだ40代だから体力もあるし大丈夫。ゼロになってもスタートと同じ」という気持ちで乗り越えていった。

【近況】
末っ子の息子・幸一さんがポンペイアの西村農高、ラブラス農大を卒業した後、博幸さんが創業したサンゴタルド農場を継ぎ、経営。父親の夢を引き継いでいる。
(写真右=現在の道子さん(コチア青年連絡協議会で))

2014年6月21日付

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