東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち① 始まりは「シネ・ニテロイ」

東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち① 始まりは「シネ・ニテロイ」
日曜日の東洋市。途切れることなく人が訪れる(2015年6月)

健全な楽しみ提供した田中義数氏

サンパウロ(聖)市リベルダーデ。週末、地下鉄駅から広場に上がると手工芸品、食、植物など様々な屋台が軒を連ね、訪れる人たちで終日賑わう。リベルダーデの顔の一つ、「東洋市」(Feira Oriental da Liberdade)だ。戦後の聖市で発展した「日本人の町」が「東洋街(区)」と呼び名を変える時代に始まったこの青空市(フェイラ)。以来途切れることなく続き、今年9月で40年になる。普段は「ある」ことが当たり前に思いがちなリベルダーデ。その「当たり前」の陰には、始めた人、盛り上げた人、続けてきた人たちがいる。(松田正生記者)

6月のある日曜日、午前中のリベルダーデ広場を訪れると、組み立てを終えた各屋台が営業を始める時間帯だった。まだ人出はそれほど多くない。天気の良い日なら昼前ごろには訪問者が増え、まっすぐ歩けない混雑が続く。

広場から下りた地下鉄駅の入場者は、平日で1日約3万人。週末に他のイベントがあれば、広場を渡ったガルボン・ブエノ街まで人があふれる。「すずらん灯」の下を進むと右側に日本庭園、そして姉妹都市の名を冠した陸橋「大阪橋」がかかり、大鳥居が立つ。

駅、橋、鳥居、これらの建築物ができた時代に東洋市も生まれた。サンパウロの発展の中でリベルダーデの町並みも変貌する1970年代前半、戦後生まれた「日本人の町」が「東洋街」へと移り変わるころのことだ。

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4月は花祭り、7月は七夕、そして12月には東洋祭りと大晦日の餅つき。近年では中国系の旧正月祭りも定着した。日系、韓国系に加え中国系店舗も続々と増え、年間を通じて様々な行事で賑わう。そのリベルダーデも、60数年前までは「昼なお暗き」と評された、街路樹のある住宅街だった。地下鉄駅はまだなく、広場は木の生えた公園。大阪橋の下を通る東西道路が掘られる以前、町は繋がっていた。

53年7月、この静かな通り、現在の大阪橋のあたりに5階建ての建物が完成する。間口28×奥行50メートル。地階が日本映画館で上階にレストラン、ホテル、貸しホール。リベルダーデが「日本人の町」へ変わる最初の一歩となった「シネ・ニテロイ」の誕生だ。

経営者は、戦前に渡伯し、穀物仲買で成功した田中義数氏。「日東の勇士(ニテロイ)」と名づけられたブラジル初の日本映画常設館を中心に、周囲に日本人の店が増え始めた。戦前の日本人集住地区だった近隣のコンデ・サルゼーダス街周辺から、戦中の強制立退き、終戦を経て、ガルボン・ブエノ街を中心としたリベルダーデが日本移民、日系人の新しい拠り所となっていく。商店、飲食店、旅館。日本映画館は後に4カ所を数える。

リベルダーデ商工会が日伯修好100周年を機に発行した記念誌「LIBERDADE」中の座談会で、戦前からリベルダーデで商売を営んだ画家檜垣肇氏が初期の日本人町の様子を振り返っている。

「奥地の方から3日がかりで出てきて映画のハシゴして、巻き寿司やうどん食べて、また3日かかって帰っていく日本人もいっぱいいましたね」

生前、いつも「私は娯楽の少ない日系人たちに娯楽を差し上げたい」と話していた(神田大民・日伯毎日新聞編集長=当時=の寄稿より)という田中氏。同記念誌は、「何よりも日系人に健全な楽しみを考えたのだと思います」という夫人つた子さんの言葉も伝えている。

ブラジルが軍政に移行した64年には、三笠宮殿下ご臨席で定礎式を行なったサンパウロ(現ブラジル)日本文化協会の文化センター(文協ビル)が落成。翌65年、田中氏を会長にリベルダーデ商店主親睦会が結成された。ガルボン・ブエノ街界隈での、戦後移民の「新来」青年と2世青年の対立が問題となっていた時代。街を明るくしよう、との関係者の願いから結成に至ったという。

副会長は、ピニェイロスから62年にリベルダーデに進出した日本品店「カーザ水本」の水本毅氏。田中氏と、同親睦会の後身リベルダーデ商工会の初代会長となる水本氏、そして商店主らにより、現在の東洋街の基盤が作られていく。(つづく)

2015年8月22日付

東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち① 始まりは「シネ・ニテロイ」
開館当時のシネ・ニテロイ(1953年7月)
東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち① 始まりは「シネ・ニテロイ」
田中義数氏

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