東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち②

東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち②
大阪橋の落成式当日の様子(1970年12月23日付サ紙)

転機になった地下鉄・道路建設

日本人、日系人による商売を中心に、住宅街から商店街へと発展した戦後のリベルダーデ。その風景を大きく変えたのが、1960年代末からの地下鉄南北線、東西自動車道路の建設工事だった。地下鉄駅の建設は、静かな公園だった広場の姿を変え、東西道路が二分した町を4本の陸橋がつないだ。そして、市による再開発・整備の中でリベルダーデは「東洋街(区)(Bairro Oriental)」として再出発する。

◎   ◎
66年、市民の足として長年親しまれたボンデ(路面電車)がサンパウロの街路から消えた。皇太子殿下夫妻(現天皇皇后両陛下)が来伯され、サンパウロ市でパカエンブー競技場での歓迎式典に出席、リベルダーデの文協ビルを訪問される前年のことだ。

68年になると、地下鉄南北線の建設に伴いリベルダーデでも立退きが始まる。広場にあった石灯籠も撤去された。そして同年8月、「日本人の町」の出発点となったシネ・ニテロイが道路建設のため閉鎖され、同区内に移転する。

その翌年の69年11月、サンパウロ市がリベルダーデを「東洋地区(Zona Oriental)」とする政令を定めた。広場、エスツダンテス街からサンジョアキン街までの区域の歩道を「東洋」風に再整備する内容。パウロ・マルフ市長の時代だ。商工会記念誌(96年発行)には、当初は「リトル東京」とする案だったとある。現在も続く年末の「東洋祭り」が始まったのもこの年からだ。

一方、リベルダーデを南北に二分する東西道路の建設工事で、街区の地面は深く掘り下げられ、周辺住民を悩ませた。

「天気の日にはひどい埃で、雨が降ると今度はドロドロ。何度逃げ出そうかと思いましたか。2年くらいは続きました」(商工会記念誌の座談会で檜垣肇氏)。

終了後、目抜き通りのガルボン・ブエノ街に架けられた橋は姉妹都市(69年10月)の名を冠した「大阪橋」と名づけられた。70年12月に行なわれた落成式にはマルフ市長も出席。大勢の来訪者が橋の上を埋めた。

道路工事は一段落したが、地下鉄工事は終わらない。工事には、北東伯から来た出稼ぎ労働者も多く携わっていたという。坂上のリベルダーデ通りは掘り返され、周辺の店舗は商売あがったり。第3代リベルダーデ商工会長で、3年前までガルボン街で明石屋宝石店を営んだ尾西貞夫さん(72、兵庫)は、「何年かは商売にならなかった。店をやめた人もいましたよ」と当時の様子を思い出す。(つづく、松田正生記者)

2015年8月25日付

東洋市40年 リベルダーデの発展と支えた人たち②
地下鉄工事が行なわれていたころのリベルダーデ通り(71年10月6日付)

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password