東洋市40年リベルダーデの発展と支えた人たち④

東洋市40年リベルダーデの発展と支えた人たち④
最初の「東洋手芸品市」の様子(1975年9月16日付本紙)

週末の風景変えた東洋市

「東洋街に民芸市場を」―。1975年8月23日付本紙が、リベルダーデ広場の青空市(フェイラ)開設を伝えた。市観光局と商工会が運営、「東洋風の民芸品なら何でも揃う日曜市」と位置づけ、手作りの品を優先する、出品物の審査も行なうという熱の入れようだった。

そして9月14日、日曜日の午後に「東洋手芸品市」プレ・イナグラソンが開かれた。出店数は115。広場には食べ物屋台や、皮製品、盆栽、焼き物、ろうけつ染め、人形など様々な手工芸品が並び、大勢の人が訪れた様子を邦字紙が伝えている。

以来、晴れの日も雨の日も、東洋街の顔の一つとして続き、今年で40年になる。当初の日曜開催は土・日曜に。今ではクリスマスの時期などは平日にも露店が並ぶ。水本毅氏はじめ、開設に携わった人たちは現在の賑わいを想像していたろうか。

◎   ◎
6月のある日曜日、午前中のリベルダーデ広場を訪れると、いつものように隅本開さん(70、広島)の姿があった。東洋市の世話役を続けて約30年。現役を離れた今も近郊タボン・ダ・セーラ市から毎週顔を出す。店主らと談笑し、スムーズな運営のため気を配る。

17歳の時に両親・弟妹と渡伯。北パラナ・カンバラから単身サンパウロに出て、長年魚卸業に携わってきた。本業の傍ら東洋市の世話役を引き受けたのは85年ごろ。その以前から援協の仕事を手伝っていた縁で、水本氏から誘われたのがきっかけだった。

当時はまだ日曜だけの開催。「水本さんは(日曜日の)ゴルフが好きだったから」と冗談めかすが、「責任感の強い人だったから、ゴルフが終わったらいつも来ていた。『どうかー?』ってね」

東洋市が始まる以前、日曜日のリベルダーデで開いていたのは映画館ぐらい。「店は全部閉まっていて、静かで何もなかった」。そこで「バイホ(区)に活気を」と青空市開催のアイデアを出したのが水本氏だった。

当時のコラスオノ市長と話し合い、開設が決まった。行政との交渉力に加え「人を集める力があった」という水本氏。「一声掛けると皆集まった。これが良いと思うと『お前たち、いいぞ』と。言われた人は皆信用していた」。隅本さんはそして、藤田氏、本藤氏、また役者の丹下セツ子さんといった、初期の東洋市を盛り上げた人たちの名を挙げる。

「軽い気持ち」で手伝いを引き受けて30年。最初のころは日本人の出店者も多かった。自身は「アルテサナット(手工芸品)が何かも分からなかった」と笑うが、市役所とのやり取り、高齢の出店者の市への申請手続きの手伝いなど、「一から十まで」やったと振り返る。平日のセアザでの仕事との両立だったが、「まだ若かったから」

東洋市40年リベルダーデの発展と支えた人たち④
生前の水本毅リベルダーデ商工会長(左端)

東洋街を盛り上げることに心を砕いた水本氏は、最後の大仕事となった東洋文化会館建設中に病に倒れた。後を引継いで建設に尽力した一人、尾西貞夫さん(72、明石屋宝石店主=当時=)は、「任せるから、と手を握られて」と思い出す。会館は国内、日本からも寄付を得て89年6月に完成。水本氏はその2カ月後に死去した。

91年から商工会第3代会長を務めた尾西さん。自身の任期(3期)中に、東洋会館の運営のため商工会を現在のリベルダーデ文化福祉協会へと組織替えした。日伯修好100周年で来伯された紀宮さま(95年当時)がリベルダーデ広場を訪問されたことも任期中の思い出だ。

「自分が会長をやっていたころから、リベルダーデに来る人が増えてきた」という。「昔輸入品が少なかったころは中流の人が来ていたけど、輸入が自由になってから来る層が変わりましたね」。現在は「東洋風」以外のものも売られるようになった東洋市。「11か12カ国(系)の人が店を出している」そうだ。

市が始まったころは、周辺の商店から「同じようなものを売る」と反対の声もあったそうだが、その存在が、日曜日もほぼすべての商店が店を開け、来訪者で賑わう現在のリベルダーデにつながった。老若男女、近年では日本のアニメ・マンガファンの若者たちも。「ああいうもの(東洋市)があるから人が来てくれる。自分が商売をしていたころは感じなかったけど、今はそう思いますね」と尾西さん。「やっている人も生活があるから、なくなることはないでしょう。跡継ぎがうまくいけば続くんじゃないかな」(つづく、松田正生記者)

2015年8月27日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password