次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡⑰

和田さん

移住者の記録残したい 「さわやか商会」の和田さん ポルト・アレグレ

◆南大河州編
戦後移住が始まってから、日本各地の大学に海外移住の研究会が設立され、多くの学生が海を渡った。早稲田大学の学生だった和田好司さん(72、兵庫)もその一人。60年安保の余韻の残る日本を出発し、ブラジル国内、南米各地の移住者を訪ね歩いた。長年日系商社のポルト・アレグレ出張所長として働き、同時に日本から来た若者の世話も続けて来た和田さん。同船者の記録を残す作業を続けて10年になる。

多くの日本移民が出発した町、神戸で生まれた和田さん。中学生の時に戦後移住が始まり、ブラジルへ向かう移住者は身近な存在だった。学校の課外授業として、見送りのない人のために移住者が船から投げるテープを拾いに行ったこともある。

早稲田大学第1政経学部政治学科に入学、将来は政治の世界に入ることを頭に描いていたという。その方向を変えたのが60年安保だった。

新日米安全保障条約への反対運動として1950年代の終わりから繰り広げられた安保闘争。反対デモの中には和田さんの姿もあった。しかし条約は60年6月に国会で承認。挫折感の中で和田さんの視線は外国へと向かう。

大学の海外移住研究会に入り、翌年、移住啓蒙の活動で九州を回った。自分たちが書物から得た知識でする話を、高校生が目を輝かせて聞いていたという。「我々の話に乗って移住した人もいるかもしれない。その人たちへの申し訳のためにも、我々の中からブラジルに行かないと」、そう感じた和田さんは62年3月、大学を休学してブラジルへ渡った。

乗り込んだ「あるぜんちな丸」の第12次航で移住したのは681人。コチア青年などの単身移住者、海外協会連合会の移住地、連邦植民地への入植者に加え、ボリビアやパラグアイ、亜国への移住者など、戦後移住を象徴する人たちが乗り合わせていた。着伯した和田さんが取り組んだのが、これら各地の移住者の姿を自分の目で見ることだった。

リオ、バイア、パラーなどブラジル各地、ボリビア、亜国など、ほぼ陸路で南米を回った2年間。訪れた先で次の場所を紹介してもらいながら、各地で見聞きした移住者の話を日本へ送った。「皆さん受け入れてくれた」。橋のないマラニョンのロザリオ植民地では、入植者が首まで水に浸かって収穫したトマトを運んでいた。ブエノス・アイレスでは、同地の県人会から援助を受けたこともある。

帰国して大学を卒業し、65年に再び渡伯。ゴイアス州グルピー(現在はトカンチンス州)で牛飼いと野菜作りを始めたが、順調には行かなかったという。「農業者としては落第でしたね」。2年後、ブラジルで通用する資格を取ろうと都会へ出た。

 リオの日系企業で1年働いた後、ポルト・アレグレ総領事館の補助員に採用された。ポ市で予備校に通い、南大河カトリック大学法学部に合格。「補欠の5人 目だった」と笑うが、5年かけて卒業し、弁護士資格を取得した。同州の弁護士が人口1000人当たり一人の時代だ。卒業後、ポ市で出張所を開けたばかりの ブラジル丸紅に就職し、4年目から所長になる。

和田さんが所長になった時、本社は出張所を閉めるつもりだったという。「そんなことを知らずに必死になって」と和田さん。州内の会社を軒並み回って新規 の仕事を探し、2年後には「閉めるつもりが閉められなくなったと言われた」と笑う。以来17年間所長を務めた。「間口が広くて奥行きが深い商社の仕事を思 い切りやらしてもらった」

伯丸紅の現地役員にもなったが、95年、55歳で退職を決意する。出張所が伯本社の方針で行っていた事業が不採算を理由に打ち切りになり、人員整理を迫 られた。「自分の手を切り、足を切って続けることはできない」、和田さんは会社を辞め、家族経営の会社「さわやか商会」を立ち上げた。社名は夫人と3人の 娘の名から付けたものだ。

日本の会社の連絡事務所業務や輸出入、コンサルタント等の仕事を手がけて今年で17年。設立の時、「お父さんが元気な間の遊び場所」と言って手伝った娘さんも巣立った。和田さんは「体力、気力のある間は遊ばせてほしいですね」と表情を和らげる。

本業の傍ら、日本から来た若者たちの支援にも力を注いできた。2005年までの25年間で約750人の研修生を派遣した日本ブラジル交流協会。その地方 理事として南伯2州で研修した72人の受け入れ準備、世話にあたってきた。和田さんは移住当初のころを振り返り、「たくさんのお世話になった人たちに直接 お返しすることはできない。だから恩返しのつもりで、次の世代に何らかの形でお世話をしたい」と気持ちを語る。

現在は南日伯商工会議所の専務理事を務めながら、地元日系団体の活動も手伝う。あるぜんちな丸の着伯40周年を機に開設されたホームページ「私たちの40年」の管理運営も大切にしている仕事だ。

航海中は船内新聞「さくら」の編集責任者だった和田さん。同ホームページは航海の記録、同船者の寄稿を残す目的で開設され、今では戦後移住者、日系社会 の情報を伝える場として一日1000人が訪問するほどになった。「681人の移住先国での定着の過程を戦後移住史の一部として残しておきたい」と和田さん は希望を語る。

渡伯40周年に船内新聞の号外を作ろうという話から始まった同船者の集いでも長年世話人を続け、今年5月の50周年で一区切りをつけた。バイア州やボリビアからも旧知の人たちが集った式典を振り返り、「やって良かった」とうなずく。

ブラジルへ渡って半世紀。「現在送っている自分の人生が最善のもの、悔いのないものという思いをいつも持ちながら過ごしたい」と和田さんは話す。「移住 というのは人生の一つの選択。50年前に下した選択が悔いのなかったものであるという人生を送っている人が一人でも多くいるよう望んでいます」(2012年5月25日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年8月24日付

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