次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡⑱

1957年8月、ブラジルに向け羽田空港を出発する後藤さん(中央)、佐藤さん(右)、鬼木さん(左)

戦後進出企業の先駆け 仲間と育てた伯ヤンマー 後藤隆さん

日本企業のブラジル進出が始まってから現在まで、駐在員としてこの国を訪れた日本人は何千人にも上るだろう。しかしその中で、半世紀以上にわたって伯国で暮らす企業人は多くない。その一人がヤンマー・ド・ブラジル元社長の後藤隆さん(87、広島)だ。「54年もいるとは思いませんでしたよ」―、厳しさを秘めた表情が和らぐ。ブラジルでの時間の大半は、仲間たちと立ち上げ、育ててきた伯ヤンマーと共にあった。

◆企業編
ディーゼルエンジンメーカーのヤンマーディーゼル社(現ヤンマー)がブラジルへ進出したのは1957年8月。ジュセリーノ・クビシェッキ大統領が「50年の進歩を5年で」をスローガンに外資導入と国産化奨励策を進め、戦後最初の日本企業進出ブームが起きた時代だった。

同社の当時の海外拠点は台湾くらい。ブラジルへは50年から代理店の花城商会(花城清安代表、聖市)を通してエンジンを輸出、55年のサンパウロ市400年祭の見本市で展示を行うなどしていたが、現地生産の工場はまだなかった。そこで56年、中南米進出を視野に大阪副支店長の佐藤仁(まさし)氏が南米を訪れる。

最初はアルゼンチンという選択肢もあったが、ペロン革命の直後、また日系企業がゼロに近かったことなどからサンパウロの花城商会へ。そこから清安氏のおい、清和氏が訪日して同社創業者の山岡孫吉社長に進出を要請し、日本から専務らが調査来伯へと進展。伯国内の工作機メーカー買収も検討されたが、まずは拠点を設けて輸入・販売から始めることになった。

「ブラジルへ行く気はないか」―、佐藤氏から声をかけられた時、後藤さんは32歳。営業部大阪販売部長付きだった。

広島市出身。海軍経理学校から大分県の宇佐航空隊で主計見習いとして勤務していた後藤さんは、主計長の指示で呉(くれ)を訪れる途中に岩国航空隊で終戦の詔勅を聞いた。その途上、被爆間もない故郷も訪れた。両親は無事だったが、10日以上過ぎてもまだくすぶっている一面の焼け野原、転がる犠牲者の死体、「悲惨さに、あぜんとしました」と思い出す。

終戦翌年の2月まで残務整理に当たった後、京都大学経済学部を卒業して兼松へ。ヤンマーへ移ったのは「あそこは色々と新しいことをしている」という知人の誘いだった。

「兼松にいるころから海外へ出ることにあこがれがあった」という後藤さん。妻の玲子さん(2002年に死去)の承諾も得てブラジル行きが決まった。

進出にあたり、出発の4カ月前から本社でブラジル事情やポ語の準備も行ったが、「ほとんどよく分からなかったね」。そして57年8月、佐藤氏、鬼木正敏氏 ら創業メンバーとともに羽田を出発。アッツ、バンクーバー、メキシコ、リマからアンデスを越える2日半の空の旅を経てサンパウロに到着した。

「思ったより大きな町。外出してもポ語が分からないから下手をすると道に迷うし、日系の顔をした人に尋ねても意外と日本語が分からない人が多かった」、後藤さんは着伯当時のサンパウロの様子を振り返る。

花城清和氏の事務所の上を仮事務所として輸入販売を始め、のちにリオ・ブランコ通り446番にあった機械修理場の空家へ移った。メンバーは社長の佐藤 氏、副社長の後藤氏のほか、鬼木氏、若林雅之助氏、日本の商社員として伯国にいた前田保重氏、2世や産業開発青年隊の1世など。間口20×奥行き40メー トルからのスタートだった。

翌年5月のぶらじる丸で家族が着くまでは男同士の『合宿生活』。アクリマソンの家からバスで会社へ通う毎日。「女性は割り込んで乗るけど、僕らはできな くて。歩いていくこともあった」と笑う。2時間の昼休み中は会社を閉めるため、近所のバールで昼食後は時間をもてあましたとか。「おおらかでしたよ」

土曜日も午後1時まで働き、夜はポ語のレッスンという生活。日系人が主体の従業員には夜大学へ通う人もいた。「みな勉強していた。まじめでしたよ」と後 藤さん。「日系コロニア、子弟たちがあったから言葉や習慣が分かるまで非常に世話になった。進出当時大助かりしたことです」。日本の食材が豊富なことにも 驚いた。「お陰で家族が来た後も助かった。他の国ではあり得ないこと。コロニアの方々のお陰ですよ」と感謝の思いを表す。(つづく)(松田正生記者)

2012年8月28日付

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