次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡⑲

後藤さん(聖市の自宅で)

農業に貢献した小型エンジン 伯経済の激動乗り越えて 後藤隆さん

 1957年にブラジルでの第一歩を踏み出したヤンマー。61年に聖州インダイアツーバの工場が稼動した。当時の市長は「工場が来れば町が栄え、技術習得、雇用に役立つ」と熱心に誘致し、23万平方メートルの土地を提供したという。

同社の小型ディーゼルエンジン製造プロジェクトがクビシェック大統領の産業振興策として認められ、工作機械などの輸入が免税となった。その期限に間に合わせるため工場建設を急ぎ、62年に国産第一号が完成する。

しかし最初は不良品率が高く、「らちがあかない」状態。鋳物工場を建設したが、工員には未経験者や字の読めない人、技術を覚えてより高給の職場へ転職する人もあり、不安定さが悩みの種だったという。やがて日本で生産管理を学んだ大学卒の技術者が他の工員に仕事を教え、「7、8年から10年くらいたって経営が安定してきた」。後藤さんは「ここでも2世の人たちにお世話になった」と話す。

現地生産体制の確立と同時に販売網拡張にも力を注ぎ、量産を前に近郊からリオ、さらに北伯などの主要都市へと広げていった。市場調査のため同行することもあったそうだ。

初期には灌漑(かんがい)ポンプ用のエンジンや発電機、ラミーから繊維を取り出す剥引(はくひき)機などを生産。70年ごろに撤退した耕運機メーカー・ヰセキの工場を買い取り、耕運機の生産も開始した。73年には小型エンジン用にガソリンエンジンのメーカーを買収した。

64年の軍政移行後、ブラジル経済が年10%の高度成長を続ける中、オイルショックまでは「増産、増産で、作ったものは売れた」という。「ほとんど赤字なくやってこれた」と後藤さん。「ブラジル政府の国産品保護、輸入規制の政策のお陰で恩恵を受けた」と振り返る。同社の小型エンジンは日系農業者の営農にも大きく寄与した。

佐藤社長の死去後、74年に後藤さんが社長・本社取締役に就任。しかし、その後伯経済は下降に向かい、87年の伯国のモラトリアム(債務不履行)宣言から企業の撤退、投資減少、そして最大2000%を超えるインフレ亢進へと続く「負の経済」の時代へ突入する。

「極め付きだった」のが、90年のコーロル大統領による預金凍結。会社口座の封鎖により伯ヤンマーでも従業員の給料が支払えず、輸入為替を現金化して5日遅れでやっと支払うことができたという。同社で給与が遅延したのはこの時だけだったそうだ。

62年から会員であるブラジル日本商工会議所では長年専務理事を務め、戦前の商業会議所時代からそのままだった定款の改正や、現在も続く業種別部会の設置など組織作りに尽力。日本からの視察団の応対にも奔走した。

89年から93年まで会議所の会頭を務め、94年に伯ヤンマー社長、96年に会長を退任した。現在は本社参与の立場にあり、2007年の秋の叙勲で旭日双光章を受勲した。

ヤンマー進出当時、戦後の日系進出企業は繊維企業などわずか。「コロニアは歓迎ムードでしたけど、ただ日本からの商社マンはドル族と言われ、いずれ帰る 人として特別扱いされていた」。そうした雰囲気を変えるため、南米銀行の宮坂国人氏が文協に基金を作るなどコロニアと日系企業の密接化を図ったという。

後藤さんも一時文協役員を務め、コロニアの時局懇談会「やまとクラブ」などの集まりにも参加した。コロニアの催しにも顔を出していたそうだ。「昔は天皇 誕生祝賀会や新年会に出たものだけど、今の人は出ませんね。一時と比べてかかわりが薄くなっているように思います」。ジャクト創業者の故西村俊治氏との交 友も長く、同氏が設立したポンペイア農業技術高等学校へ教材用のトラクター、ポンプ等を寄贈するなど協力したという。

経営の一線から退くまで47年。ブラジル出向が決まった時、副社長からは「石の上にも3年というから」と言われたという。しかし、「現地の事情もポ語 も、3年じゃ何もできない。出るときは万歳と旗で送られて、そんなので帰してくれとは言えない」。後藤さんは「ブラジルは短期では事情は分からない。長年 やってきたことを、ひょこっと来た人に任せられない。健康が許す限りは続けたい気持ちだった」と思いを語る。

「昔は会社立ち上げに役員クラスの人たちが来ていたけど、今は若い人になって、短期だから、中長期的な投資や思い切ったことをするのがなかなか大変。本 社にお伺いを立てないと現地のプロジェクトも進まない。制約が多くて大変だと思いますよ」。長年進出日本企業の変遷を見てきた後藤さんは、「我々の時は国 策に沿っていたから出やすかったし、政府の保護もあって基盤をつくることができた」と振り返り、現在は伯国内で過当競争になると指摘する。「特殊性、ブラ ジルで競争力のある商品を持ってこないと、人と同じものを作っていては遅い。新しく、日本の技術を基にしたものでないと通用しない。今の方が我々の時より 大変でしょう」

在伯55年目の今、「まだブラジルには魅力がある」と話す。「資源豊富で、食糧生産の拠点であり、国民所得は上がり、国内市場は広がっている。気候も風 土も、こんなに良いところはない」。後藤さんは、「インフレの時代はこんなひどい国ないと思っていたけど、昔に比べれば楽になりましたよ」と穏やかな表情 を浮かべた。
(2011年12月19日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年8月29日付

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