次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡⑳

山田さん夫妻(聖市の自宅で)

戦の祖国からアメリカへ 様々な出会いに助けられ 山田唯資さん

 ブラジル日本商工会議所の監事会議長を長年務めた山田唯資(ただし)さん(87、静岡、帰化人)が米国へ渡ったのは、終戦から4年後のことだった。苦学して大学を卒業、大学院在学中に偶然目にした雑誌の文章に導かれるようにブラジルへ。そこで手がけた仕事は、日本人の手による日系生産者のコーヒー輸出だった。移民の『夢』実現にかかわり、70年代からは企業コンサルタントの先駆けとして奔走。その傍ら、30年以上にわたって監事として商議所の発展を見守り続けた。「与えられた責務を全うすること」、陸軍士官学校で学んだ言葉を胸に進んできた。そして今、「数え切れないほど助けられた」と自身の歩みを振り返る。

◆企業編
浜松の中学校を卒業後、陸軍士官学校に入学。1945年6月に卒業して少尉に任官した山田さんは、激戦のフィリピン・レイテ島へ行く予定だったという。しかし輸送の飛行機はすでになく、本土決戦に向けた愛媛県八幡浜の部隊に配備された約2週間後、連隊旗手として終戦を迎えた。1カ月後、終戦業務を終えて帰郷すると、連合国総司令部(GHQ)による軍関係者の公職追放が待っていた。

約6万人に上ったという軍人の追放。官公吏、教員などへの道は閉ざされ、21歳の山田さんは神戸経済大学(現神戸大学)へ進学する。食べ物のない時代。母親が浜松から親戚宅の下宿先までサツマイモを担いで訪れていたそうだ。「持ってくるだけじゃなくて、三宮(さんのみや)の闇市でも売って帰る。何度もやっていましたよ」と山田さんは振り返る。

大学のある六甲台地周辺は接収されて進駐軍高級将校の住宅が建てられ、大学の大講堂も進駐軍家族の劇場に。山田さんはアメリカへ行くことを夢見て米人軍曹の家でハウスボーイとして働いた。その仕事ぶりを評価した軍曹は、山田さんが大学の講座に通えるよう配慮してくれたという。

転機が訪れたのは1年後。オレゴン州立大学教授を退職後、軍曹宅の向かいで米兵の進学のための予備校で教えていたゲルモア氏と知り合い、留学の希望を伝えた。山田さんが働く姿を1年間見ていたゲルモア氏はその願いを受け入れて保証人となり、同大学への留学が決まった。

同年齢の息子を戦争で失ったというゲルモア氏は300ドルの旅費も援助し、渡米後の仕事まで面倒を見たそうだ。軍曹、そしてゲルモア氏との出会い。「それが出発点でした」と山田さん。「そこから数え切れないほどの人が助けてくれました」

占領期の日本からの米国留学は珍しく、山田さんのケースはジャパン・タイムズで紹介されたという。連合国総司令部発行のパスポートを手に、49年9月、24歳の山田さんは単身海を渡った。

1年生から入り直した大学生活は、ハウスボーイをしながら学校に通い、学費と生活費を工面するため夜はパン工場で働く日々。「大学の図書館で勉強する学生がうらやましかったですね」と振り返る。4年で卒業し、ニューヨーク大の大学院へ。ここで迎えた転機が山田さんの進路をブラジルへと向けることになる。

きっかけは在学中に目にした米国の雑誌記事。聖州、パラナ州の日系コーヒー生産者・精選業者と南米銀行(南銀)が共同で設立したプロヅトーレス倉庫を紹介するものだった。

ブラジル拓殖組合の銀行部から始まった南銀。プ倉庫は、第二次大戦中に敵国資産として伯政府に凍結された資産がようやく解除された51年に設立された。そ して、そこからコーヒーを輸出する会社として53年、吉雄武氏を代表とするCICAP(Com駻cio e Ind俍tria Cafeeira Alta Paulista S.A.)が設立される。

「資産凍結を解除された時、南銀は破産状態。どう生き残るか、首脳部は血まみれの努力を したんです」と山田さんは語る。その中心となったのが創立者の宮坂国人氏、加藤好之氏、後の南銀を支えた橘富士雄氏、相場眞一氏ら旧ブラ拓の人たち。コロ ニアの有力コーヒー生産者・精選業者を中心としたプ倉庫設立は、南銀が生き延びるための方策であると同時に、日本移民のコーヒーを生産から精選、輸出まで 一貫して日本人が手がけることは当時のコロニアの夢でもあった。

その以前に、これも偶然手にした文藝春秋で南銀創立者宮坂国人氏の随筆を読み、 宮坂氏が大学(当時は神戸高商)の先輩であることを知っていた。移民による、日系生産者のコーヒー輸出―。興味を抱いた山田さんは宮坂氏に手紙を書いた が、戦中の資産凍結が解除されたばかりの時代、「あなたみたいに23年も学校へ行った人に南銀は給料を払えない」と断られたそうだ。

それでも「毎日手紙を書いた」と山田さん。ちょうどそのころリオで開かれた第1回世界経営学会に大学時代のゼミ教授だった平井泰太郎氏が参加し、宮坂氏に山田さんを推薦したことから呼び寄せが決まったという。

人との出会いに助けられて実現したブラジル行き。「人生には素晴らしいエピソードがあるんですよ」と山田さんは目を細める。54年9月、大学院を修了した山田さんは貨物船でサントスに降り立った。(つづく)(松田正生記者)

【取材は今年3月に行ったもの。山田さんは8月25日に87歳で亡くなった。ご冥福をお祈りします】

2012年8月30日付

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