次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡㉑

笑顔で自身の人生を振り返る山田さん(2012年3月)

「責任を全うする」生き方 ブラジルで守り続けた58年 山田唯資さん

◆企業編
1954年にニューヨークから単身ブラジルへ渡った山田唯資さん。着伯後すぐ、設立間もないCICAP社(南米銀行〈南銀〉がバックアップするコーヒー輸出商)で仕事を始め、コーヒーの格付けをするブラジル人ととともに輸出業務を担当した。「当時の日系社会には、英語ができて、世界貿易の仕事ができる人材がいませんでしたから」

南銀創立者の加藤好之氏は山田さんの夫人、イネスさんの父親。「どうして南銀に入らなかったのかとよく聞かれた」という山田さん。「宮坂(国人)さんと加藤さんの時代、加藤さんは厳しい人で、南銀は2人の個人会社じゃないといって、親戚は婿も含めて入らせないという鉄則を貫いた」と同氏の人柄を振り返る。

同社は58年までに聖州内で五つ、パラナ州内で三つの支店を開き、55年当時13万俵だった年間輸出量は60年代に30万俵、伯全体の輸出総量の約3%を占めるほどになった。移民が育てたコーヒーは南北アメリカ、欧州のほか、日本へも届いた。

65年にはCICAPを拡大する形で国内の日系コーヒー農園主・精選業者による新会社「SUPER ORGANIZAヌテO DO CAFノ BRASILEIRO」も設立されたが、すでに世界的な生産過剰時代に入っており、輸入側が主導権を握るようになっていた。新会社は実質的な活動をするまでに至らず、CICAP社も72年に閉鎖される。

「やはり我々のような小さなところでは、ユダヤ資本に太刀打ちできない」、66年から専務を務め、最盛期を肌で知る山田さんは振り返る。移民によるカフェ輸出はわずか10数年だったが、山田さんはこう付け加える。「そういう一時の舞台に、コロニアや宮坂、加藤さんたちがそういうことを考えてやった。エポック(時代)を作ったんじゃないですかね」

一方で、時代の流れは山田さんに新たな道を開いていた。70年にコンサルタント会社「アイコン」設立に伴い同社専務に就任。やがて、「ブラジル経済の奇跡」と呼ばれた高度成長と日本企業の進出ラッシュの時代が訪れる。

進出には事前の調査が必要となる。その依頼先として、日系のコンサルタントとして先駆者の一つだったアイコン社へ白羽の矢が立った。同社が移住事業団やジェトロの依頼などで手がけた調査は、70年からの4年間で167件。さらに機械の輸入認可など、進出後の問題解決にも奔走した。「70年代は日本からほとんどの会社が来た。関心は高かったですよ」と振り返る山田さん。75年に社長に就任、88年にはこれらの功績により日本国通産省の海外経済功労者表彰を受けた。

その傍ら、73年からはブラジル日本商工会議所の活動にも参加し、77年には監事に就任する。その選出には、当時の橘富士雄・南米銀行社長の思いが込められていた。

 当時の会議所常任理事会はほとんどが進出企業の代表者。ブラジル事情についての知識は少ない。橘氏は、「永住している人間が一人は必ず監事に入って、お 守り役として任務を尽くすべき。ブラジル事情を知らないことで日本の人のキャリアを汚すわけにはいかない」と説き、山田さんに就任を要請したという。

南銀関係のグループの支持を受けて初選出されて以来、山田さんは33年間監事を歴任し、2000年から10年間監事会議長の職責を全うした。「いつも第一 席で選ばれましたけど、僕の人徳ではないんですよ」という山田さん。「でも、少なくとも任務は遂行できたと思います」と穏やかに話す。

その、 「お守り役」としての責任感を象徴する一つが、修好100周年基金だ。95年の日伯修好100周年で進出企業、コロニアから寄せられた寄付の余剰金を日系 5団体が管理する同基金。2001年にその監査役に就いた山田さんは、「基金を残せ」という橘氏の遺志を守って支出を抑え、08年の移民100周年事業で 全額を配分するところまで導いた。「皆さんが助けてくれたお陰。ありがたいと思いますよ」

戦後4年での渡米、日系の手によるコーヒー輸出、そし てコンサルタント業と、結果的に先駆的な存在として歩んできた山田さん。その原点には、10代を過ごした陸軍士官学校で教えられた言葉があった。教官は 「人間というのは肝の太いやつも、気の小さいやつもいる。お前の気が小さくてもそれはお前の責任ではない」とし、「やらなければならないのは、与えられた 責務を全うすること」と教えたという。

そしてもう一つ、中学時代に野口英世の伝記で読んだ「全力を尽くせば、必ず神仏の加護というのは素晴らし い後援者を送ってくれる」という手紙の一節を思い出す。山田さんは、その言葉のように「いろんな人に助けられてきた」と思いを表し、「若い人も、かたくな に責任を全うし、絶えずプラスの思考をすること。そうすれば素晴らしい世の中が開ける」とエールを送る。

アイコンの閉鎖に伴い05年に社長を退 任。08年には日本移民100周年記念の外務大臣表彰を受けた。ブラジルに住んで58年。「長かったようでもあるし、短かったようでもある」という山田さ んの信条は、中国の荘子の言葉「不将不迎応而不蔵」(過去のことをくよくよせず、先のことを悩まず、事態の変化に対応し、心に何も留めない)だという。 「運命ですよね」と言い表すブラジル移住。「まだ13年は何とか生きてみせますよ」とおどけた笑顔には青年の若々しさがあった。(2012年3月6日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年8月31日付

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