次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡㉒

太陽堂の事務所で藤田さん(2012年1月)

書物が届けた日本の空気 太陽堂 日本人街の変遷とともに 藤田芳郎さん

サンパウロ市の地下鉄リベルダーデ駅の階段を上がって広場へ出ると、正面に一軒の本屋さんがある。今では数少なくなった日系書店の一つ、太陽堂(Livraria Sol)だ。北米の邦字紙輸入から始まった同店は、今年で63年目。『日本人街』リベルダーデの移り変わりの中で、書物を通じてブラジルと日本の懸け橋になってきた。創業者の藤田芳郎社長(福島、帰化人)は満92歳。今も毎朝グリセリオ街の事務所で机に向かう。

◆リベルダーデ編
福島県西白河郡出身の藤田さんは1934年、14歳で両親、妹と渡伯した。先に移住した兄のいるパラナ州トレス・バラス移住地(現アサイ)で3年間農業に従事し、18歳の時、「勉強をしたい」と単身サンパウロへ。当時日系最大の輸入商社だった蜂谷商会で働きながら商業学校に通った。

しかし41年の日米開戦、翌42年の日伯国交断絶により蜂谷商会は解散。「ルア(街路)に放り出された」藤田さんは、家内工業の商品を売り歩くなどしながら6年間の学校を終え、会計士の資格を取得した。

太陽堂創業のきっかけは、偶然引き取ることになった本だった。持ち主は東山農場支配人の山本喜誉司氏。戦後、聖市サンビセンテ・デ・パウラ街にあった山本邸が戦中から続く敵国資産凍結の影響で清算されることになり、ブラジル銀行の競売にかけられることになった。その際に同氏の膨大な蔵書を処理せねばならず、「売って小遣いに」と長男の学友だった藤田さんが引き取ったという。

その本を元に書店を開いた藤田さんは、さらに、懇意にしていた古谷重綱元アルゼンチン大使の勧めで米国デンバーの邦字紙「コロラド・タイムス(格州時事)」200部の輸入・販売も始めた。こうして49年、聖市タバチンゲラ街で太陽堂の歴史が始まった。藤田さんは29歳だった。

当時の主な日系書店は、戦前から続く遠藤書店や東洋書店など。まだ日本との通商は再開していなかったため、太陽堂では新聞のほか、キングや婦人倶楽部、主婦の友などの雑誌、複写した日本の本なども米国サンフランシスコの東洋文化書店から輸入した。

戦中の長い日本語禁止を経たころ。「当時は皆活字に飢えていたから、よく売れましたよ」と藤田さん。「そのころは海外向けの紙の配給枠もあった」と思い出す。占領中の日本の雑誌には「Occupied Japan」と記されていたという。「講和条約の後から次第に紙の質も良くなりましたね」。一方で、勝ち組負け組の対立が続いていたこの時代、「何だこの本は」と脅されたこともあったそうだ。

ジョアン・メンデスの常盤ホテルでも営業したが、ホテルの強制立ち退きでコンデ・デ・サルゼーダス街へ。この当時は市営市場やピニェイロス、パウリスタ通 りなどにも支店を開き、59年、初の日系映画館シネ・ニテロイを創業した田中義数氏の誘いを受けて現在の場所に開店した。その翌日から、藤田さんは戦後初 の日航機で5日半かけて訪日し、取引先を回ったそうだ。

戦前の聖市の日本人集住地区だったコンデ街は、戦中の枢軸国人強制立ち退きによって消滅 したが、戦後再び日本人が戻ってきていた。そして53年のシネ・ニテロイ開業により、「昔は古い素人下宿が並ぶ並木道だった」ガルボン・ブエノ街が日本人 街リベルダーデの中心になっていく。

最盛期には毎月10トンの書籍を輸入していたという太陽堂書店。輸入と卸、小売を手がける一方、藤田さんは 製造業も続けてきた。「本屋は手間がかかるわりに金額が小さいですから」。ブラジルで初めて機械による野球のミットやボールなどの製造を手がけ、その後は 柔道着、現在は手袋を作っている。「昔は手袋をする習慣がなくて売れなかった」が、今では一日2万組を製造する。「輸入以外に、作るものがあると安心する んですね」。今も同社では70人ほどが働いている。

ハイパーインフレの時代は「毎週値段替えばかりだった」と笑うが、他の商品と違って本や新聞 は輸入許可が必要なかったことは助けになったという。輸入以外のこうした事業も、伯経済の変転を乗り越える助けになったのかもしれない。藤田さんは、「苦 労というほどのことはありません。これは売れるというものを売ってきただけ」と明るい。

地下鉄駅のなかった開店のころ、リベルダーデ広場は「石 垣のある公園みたいなところで、石灯籠なんかもあった」という。「シネマができてから日本人が集まるようになった。田中(義数)さんのお陰ですよ」。やが て建設された東西自動車道が町を分断し、韓国、中国系の進出で日本人街は東洋人街へと変わった。

50、60年代の最盛期には十数軒あったという リベルダーデの日系書店も、今は4軒。「昔は田舎への発送が多かったですよ」と藤田さんは振り返る。「文藝春秋」の売り上げで見ると、一番多かったころが 約300冊、現在はその3分の1ほどだという。輸入量は10分の1になった。「旧移民の人たちが亡くなっていますから。今はファッションの本ばかりで、ブ ラジル人のご婦人も買いに来ますよ」

日系初の伯国外交官となった藤田エジムンド進氏は藤田さんの長男。東京、ロンドン大使館を経てインドネシア大使、現在は韓国大使を務めている。「来月ブラジルに来るそうですよ」と目を細める。

「古いお客さんは多いけど、昔の知り合いは皆亡くなってしまいましたね」。今も週に2回ほど広場の店に顔を出すという藤田さんは、「店に出るのは楽しいで すよ」と微笑む。本屋ひとすじに62年。「争わず、成り行き任せでやってきたから今まで続いて来たんでしょう」、淡々と話すその表情は、実直な人柄を感じ させた。(2012年1月10日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年9月4日付

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