次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡㉓

ガルボン・ブエノ街を見下ろす自宅で新井さん

日本人街を見続けて ガルボン薬局の新井さん

 2011年12月、リベルダーデで一軒の薬局が閉店した。ガルボンブエノ薬局。店主の新井檜垣静枝さん(75、2世)は戦前からこの町で育ち、学び、48年間にわたって同店を営んできた。戦中の抑圧から、戦後の日本人街誕生と隆盛、そして東洋人街へ―、リベルダーデと歩み、その移り変わりを見つめてきた新井さんに思い出を聞いた。

◆リベルダーデ編
画家の故檜垣肇氏の長女として聖市郊外のカショエイラで生まれた新井さん。両親は1929年に移住、モジアナ線の耕地での義務農年終了後出聖し、リベルダーデそばのコンデ・ド・ピニャール街でペンソン「旭旅館」を経営していた。学生や商売人、販売・買付けの農業者などの宿泊者でにぎわったという同旅館。檜垣氏が聖美会メンバーだったこともあり、半田知雄や高岡由也ら仲間の画家たちも集まっていたと思い出す。

新井さんはガルボン・ブエノ街の現バンデイランテス病院の一角にあったサンフランシスコ・シャビエル校の幼稚園に通い、斜め向かいの日伯裁縫女学校で日本語を学ぶ『リベルダーデっ子』だった。

しかし41年、戦前の日本人集住地区だったコンデ・デ・サルゼーダス街から日本人が強制立ち退きになった時に同旅館も閉鎖され、一家はビラ・マリアーナ区へ転居。新井さんの学校も枢軸国イタリア系神父の経営だったため移転となった。日本人が敵性国人とされたこの時代、「道でキンタ・コルーナ(第五列、スパイ)と言われて追いかけられたこともあった」そうだ。

やがて終戦。一家はリベルダーデのガルボン街83番(現サンパウロ商業協会)で再びペンソン経営を始めた。当時の呼び名は「Rua(街)」ではなく、アラメダ・ガルボン・ブエノ。「長屋ばかり」の静かな並木道だった。坂の上の広場ではサーカスも開かれていたという。「週末には人殺しがあったこともあります。スリも多かったですよ」と新井さんは振り返る。

一方、戦争が終わったその当時でも日本語を話して逮捕されることがあった。「父は日本語であいさつしただけで一晩入れられました」。新井さんも、拘置所に入れられた日本人に面会するため出聖した家族に同行したり、日本食を運んだこともあった。

ペンソンは後に現在の大阪橋の場所へ移転し、53年のシネ・ニテロイ完成前にはバール「旭」も開業。「近くにバールがなかったから」同店のペルニル(豚もも肉)のサンドイッチは「一日に1本出るほど」の人気だったそうだ。「忙しかったですよ」。やがてレストランも開き、当時他になかったうどんは好評だったという。「祖母が料理ができたから。稲荷ずしなんかはブラジル人もよく食べていましたよ」と懐かしむ。

ガルボン街周辺はニテロイの開業後から日本人経営の店が増え始め、買い物客や学生などでにぎわい始めた。「シネマ(映画館)があったころが最盛期でしたね」と新井さんは振り返る。

コンデのペンソン時代から、病気で田舎から出てくる人を医者に連れて行ってポルトガル語の説明などをしていたという新井さん。小学生のころには、クリニカ ス病院の日本人患者で食事が合わない人に日本食を運んだこともあった。「マルミッタ持って電車に乗って行きましたよ」。注射の必要な客には母・八重子さん が手伝ったりもしたそうだ。「そういうことを見ているうちにやりたくなったんでしょうね」。新井さんはサンパウロ大学の薬学部に進学し、59年に卒業す る。当時、「20人のクラスの中で半分は2世だった」という。

研修を終えて63年、バールの敷地に薬局を開店した。名前は街路の名のままに「ガ ルボンブエノ薬局」。他に日系の薬局が1軒あったが、2世の店は初めてだった。市営市場にあった研修先の藤井薬局で知り合った新井ジュリオさん(2005 年に死去)と1962年に結婚。披露宴はイビラプエラ公園の日本館で行ったそうだ。

2、3年後に東西自動車道建設のため立ち退きとなり、2度移転してガルボン街の現在の場所へ移った。「全部で4回移住しました」という新井さん。隣では母親がレストランを経営、妹のバザール(現在は薬局)、叔父の写真店など、周辺は「家族の店ばかりでしたよ」と微笑む。

「お客さんは多かったですよ。プラントン(法令で月1回土・日曜に営業する制度)の時は行列ができたくらい」と振り返る。注射や、初期は点滴なども行い、朝7時半から夜11時まで働いた。1世にとって日本語で薬を買える店はありがたい存在だっただろう。

以来48年。ハイパーインフレなど伯経済の変転を越えて今日まで営業を続けてきた。「(持ち家で)家賃が必要なかったし、外の人に給料を払う必要もなかったからやって来れたんでしょうね」。本業の傍ら、サンパウロ博物研究会(博研)の活動にも長年協力してきた。

その間に日本人街としてのリベルダーデは大きく変化した。「日系の家族や店はなくなるばかり。変わりましたね」としんみり話す。「子供たちは勉強して一人前になっていきますから」

閉店を決意したのは他の安売り大型チェーンが増えたこともあるが、衛生関連の規制が増えたことや、複数の商品をまとめ売りするような商法に納得できなかっ たこともあるという。「開店当時から来てくれていた人もいて、信用してくれたお客さんには気の毒なことをしました。おわびの言葉もありません」

日本人街は東洋人街へと移り変わり、韓国、中国系商店が増えて久しい。「そういう時代ですから何とも言えませんね。世の中変わっていきますから」、リベルダーデで育ち、暮らしてきた新井さんは静かに話す。

取材後、閉店した薬局のラボラトリオを案内してもらった。長年仕事に励んだ場所。今もまだ、商品やその他の荷物が残されている。「ここにいると落ち着くの では」と記者が尋ねると、新井さんは控えめな微笑を浮かべた。(2012年1月14日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年9月5日付

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