次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡㉔

網野さん(リベルダーデの自宅で)

リベルダーデ支えた日系商店 行商から始まった「アミノふとん」 網野弥太郎さん

 日本人街から東洋人街へと変わってきたリベルダーデ。50余年の発展の影には、数多くの日系商店の存在があった。2004年に閉店した「アミノふとん」もその一つ。戦後移民の網野弥太郎さん(74、山梨、帰化人)は渡伯1年後、21歳の時に行商から事業を興し、半世紀の間この町の盛衰を見つめてきた。その一方で県人会、ブラジル日本都道府県人会連合会(県連)の会長として日系社会のために尽力。在外選挙権獲得運動やサントス上陸記念碑建立、県連日本祭りの創設など、網野さんが力を注いだ事業は今も、コロニアとブラジル社会、日本をつなぐ懸け橋として生き続けている。

◆リベルダーデ編
甲府市出身の網野さんは商業学校を出て商社に勤めていた58年、20歳で単身海を渡った。日本はまだ復興途上の時代。「ならば大国で一花を」という思いだったという。

呼び寄せたプロミッソンの飯田商会(飯田彦光氏経営)で1年間働いた後、「仕事をするならサンパウロで」と出聖。仕入れた雑貨を車に積んで聖州奥地やパラナ州で販売する行商からのスタートだった。

ビアジャンテのように注文を取って後日納入するのでなく、委託販売でその場で商品を売るやり方。資金はなく、「カメラや携行品を金に換えた」と徒手空拳の時代を思い出す。北パラナがコーヒー景気に沸いていた当時、「金が飛んで歩いていた。持って行くものは何でも売れた」という。

このころに布団の側生地を扱ったことがきっかけで、60年に製造販売を開始。ガレージから始まり、64年、リベルダーデのエスツダンテス街に最初の店舗を開いた。開店後も車で奥地を回る生活。「ぶっつけ本番で、最初は中々売れなかった。『中に何が入っている』なんて言われたよ」と笑う。寒い北パラナで布団の売り上げは上々だったようだ。

50年代から日系映画館シネ・ニテロイを中心に発展してきたリベルダーデ。しかしその後、60年代後半に東西自動車道路が開通したことで町は転換点を迎える。ちょうどニテロイの下の地面が掘り下げられ、町は二分された。さらにこのころは、地下鉄工事で大通りが通行止めになった影響で閉店した日系商店も多かったそうだ。

二分された町には、それぞれの通りに橋が架けられた。ガルボン・ブエノ街に架かったのは、姉妹都市の名を冠した「大阪橋」。今ではリベルダーデのシンボルになった大鳥居はこの時に設置されたものだ。「二分された町をつなげようという願いでした」と網野さんは振り返る。

 「社がないのに鳥居があるのはおかしい」と反対の声もあった。網野さんも反対だったそうだ。当時は鳥居のほか、下を通り抜け可能にした「大阪城」を建てる案もあったとか。最終的にはリベルダーデ親睦会(後の商工会)の水本毅会長が鳥居設置を推し進めたそうだ。

ピニェイロスから戦後リベルダーデに出店した水本氏は東洋人街発展の基礎を作った人物。副会長としてサポートした網野さんは「子供の時に移住した人で、ポ 語はあまり上手じゃなかったけど、アミザーデ(交友関係)を作るのがうまかった。市長や区長など上層部との交際もうまかった。それが商工会の発展につな がったと思う」と思い起こす。

70年代の最初には日本祭りや盆踊りも始まり、それが東洋祭りとなって、現在に続いている。当時は韓国系の縫製業者も多かったが、後にブラスやボン・レチーロなど現在の中心地へ移っていった。「あまり友好的でない部分もありましたね」

網野さんの店は75年にリベルダーデ広場へ移転。最盛期のそのころは「全伯に外交員を出していた」という。しかし、世代交代が進むにつれて和風の布団より 薄手のものが好まれるようになり、「売り上げは先細っていったね」。バロン・デ・イグアペ街に移った店舗を04年に閉めた。

網野さんの店に限ら ず、90年代のリベルダーデはかつての活気を失い始める。創業者の1世らが亡くなっても、子弟は進学して社会に出ており、店を継ぐ人がいない。この当時、 リベルダーデ通り、ガ・ブエノ街とコンセリェイロ・フルタード街の橋の間をふさいだ2万平方メートルの敷地に商業センターを建設する計画が持ち上がったこ とがあった。網野さんによれば、建設会社から強度面のお墨付きを取り、市議会の認可も得ていたという。しかし、交通量増加の問題に解決策を見出せず、進展 することはなかった。

そのころから台湾系、韓国系の1世による店が増えてきた。そして今では中国人の進出が著しく、4、5年前からは中国の旧正 月(春節)を祝うイベントも開催されるようになった。「台湾系や韓国系は2世が受け継いで活気が出ている。日系人は農業だけでなく、商業の世代交代もあま り上手でなかったかもしれないね」

週末はまっすぐ歩けないほどにぎわう現在のリベルダーデ。「誰も予想していませんでしたよ」。日本人街は東洋 人街となり、今では輸入日本食品をはじめ、国外から輸入した日本風の品物が並ぶようになった。「昔は国産の日本的なものを売る町だったんですよ。日本の海 苔やワカメなんかあったら引っ張りだこだった」と網野さんは往時を思い起こす。「日本的なリベルダーデを残したいという気持ちはACAL(旧商工会、リベ ルダーデ文化福祉協会)の幹部なんかもあるけど、これからはブラジル化したものに変わっていくんじゃないかな」

日本人街リベルダーデの変遷とともに歩んできた網野さん。今も、ACALの評議員会長としてこの町の将来を見つめている。(つづく)(松田正生記者)

2012年9月6日付

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