次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡㉖

島田さん(聖市の自宅で)(2011年12月)

東京大空襲で両親失い 音楽ひとすじに60年 島田正市さん

 一昨年に芸能生活60周年を迎えた島田正市さん(75、埼玉)がブラジルの地を踏んだのは、戦後の移住再開まもない1953年。太平洋戦争中の空襲で両親を失い、戦後育った施設から3人の孤児と海を渡った。移住時に趣味と決めた音楽はいつか生活へと変わり、半世紀以上が過ぎた今もこの道一筋に歩む。演奏家、作曲家、そして指導者としてコロニアの音楽界を支える島田さん。「音楽で身を立てる」―、15歳の少年が描いた夢は、ブラジルで現実になった。

◆文化編
「この一枚だけが残っているんですよ」、島田さんが記者に見せた一葉の写真には、5歳の島田さんと母・はなさんが写っていた。東京・亀戸に住んでいた島田さんは、1945年3月10日の東京大空襲で父母を失い、満9歳になる直前に孤児になった。

埼玉県越谷市の施設を経て49年、同県春日部市に開所したばかりの児童養護施設「子供の町」へ。これは米国で児童施設「少年の町(ボーイズ・タウン)」を設立したフラナガン神父が戦後来日し、同様の施設を日本で造ることを提唱してできたものだ。理事長は、秩父宮妃殿下の母、松平信子氏。「僕が出る時(52年)には200人くらいいたけど、入った時は2人目。ガラーンとした所でしたよ」。ここで島田さんは音楽の才能を開花させていく。

「祭りの太鼓演奏や、ピアノ一つで伴奏するのど自慢なんかを見ながら、やりたいとあこがれていた」という島田さん。楽譜は「自然に覚えた」という。

12、13歳ごろからアコーディオンを弾き始め、ラジオの「子供音楽祭」で2000人収容の明治大学記念講堂で演奏したこともあった。初めて作曲したのは14歳で、曲は「子供の町の歌」。「晴れた日は筑波山がよく見える場所でね、歌詞にもその名前が入っています」

当時は戦後の焼け跡闇市時代。12、13歳のころ、横浜で密輸船の見回りの仕事を友人が持ちかけてきた。「見回りは1時間に1回。船にグランドピアノがあって、それ以外の時間は好きなだけ弾いていいって。友達と2人で施設を出て、事務所があると聞いた国際劇場(東京)の周りを探したけど、見つからなかった」

結局警察で保護してもらい、翌日迎えの人と施設へ戻った。「今思うとぞっとするけど、それだけ(音楽が)好きだったんだろうね。飯より好きだった」

日本にいれば古賀政男の弟子になる予定だったという島田さん。「1000曲の楽譜を暗記していた」という中学卒業のころには、「音楽で身を立てる」と決めていた。その方向を変えたのがブラジルへの移住だった。

日本の外務省、厚生省が実施した戦災孤児のブラジル移住のテストケースとして「子供の町」から2人が行くことが決まっていたが、島田さんも手を挙げた。「外国へのあこがれがあったから。音楽は趣味でやるから、ブラジルへやってくれと頼んで移住が決まった」

そして52年12月、もう一人を加えた4人は処女航海のさんとす丸で神戸を出発し、翌年2月、サントス港へ到着。サントスに着いた時は総領事立ち会いの下、船長室で引受人へ引き渡されたそうだ。16歳の島田さんの荷物にはアコーディオンが入っていた。

入植先は聖州グァイサーラにあった戦前移住者の果樹園。しかし「ゆくゆくは独立して、土地も用意する」という渡伯前の約束と現実は全く逆で、「僕たちが着いた時には既に住むところも銀行の担保に入っている状態」だった。「一言で言えば、だまされた」

給料なしで働いた果樹園での生活。その間も音楽を忘れることはなく、「寝る前には毎晩楽譜を見ていた」という。後に日本で発売される「サンパウロ・ブルー ス」はこの時代、18歳の時に作曲したものだ。日本から持参したアコーディオンで地元の子供たちに歌を教えたり、イベントで演奏もした。

4年半後、果樹園を出たものの、旅費はなかった。歌を教えた子供たちの親からの餞別を汽車賃に充て、島田さんはサンパウロへ向かった。(つづく)(松田正生記者)

2012年9月12日付

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