次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡(終) ペルナンブコ編

レシフェ市内の教会前で坂口章司さん。郁代夫人と(2013年12月)

レシフェの日系「皆良くなった」
移住者の苦労見つめ、陰から支え
坂口 章司さん

 レシフェ日本文化協会役員を長年務めた坂口章司さん(80、東京)が、北東伯(ノルデスチ)に来たのは1961年。日本海外協会連合会(海協連、後の移住事業団)職員として15年以上にわたり、ノルデスチの日本人移住者の姿を見てきた。その後は天理教会の仕事とともに文協役員として、学生寮の建設・維持や日本語教育に尽力。困窮した移住者の世話も引き受けた。親の苦労を見て育った子弟たちが今、地域社会に根を張る。その軌跡を見つめ、陰から支えもした坂口さんは、「皆良くなっていると思うよ」と穏やかに話す。

 ブラジルへ渡ったのは24歳の時。大学卒業後は教師になるつもりだったが、現場で見た派閥争いが「聖職」のイメージを変えたという。58年、力行会を通じて渡伯する。

 実家が天理教の教会だったことから、サンパウロ(聖)州バウルーの伝道庁で勤労奉仕をし、聖市で働いた後、リオの海協連支部に就職した。当時の支部長は、戦中の横浜正金銀行代理人を務めた大谷晃氏。「かわいがってもらってね」と振り返る。そして61年、駐在員として派遣されたのが北東伯バイア州のジュセリーノ・クビチェック(JK)移住地だった。

 州都サルバドールの郊外60キロに開かれ、58年から100家族以上が入植したJK移住地。赴任したころもまだ苦しい生活が続いていた。月に 3000クルゼイロの生活費が支給されたが、それだけでは生活できない。「トマトを植えたりするけど、虫が入ったりして生産は簡単じゃないから。大変な時 代だったね」

 坂口さんも移住地にロッテを買い、3年半を過ごした。「大谷さんに『お前は職員だけど基本的には移住者なん だから。そのつもりで頑張れ』と言ってもらってたから」。豚を飼い、子豚が生まれたら入植者に渡し、増えたら戻してもらう「豚小作」もやった。「せめて一 軒で1、2頭飼っておけば、残飯もあるし、子豚もできる」という考えだったが、実際に増やせた人は少なかったという。

 事業団レシフェ支部設置に伴い、64年にペルナンブコへ。その後訪れたノルデスチの移住地には、日本人移住者が直面する厳しい現実があった。

  北リオ・グランデのピウン、プナウ、セアラーのピオ12世、ペルナンブコのボニート、カーボ、バイアのJK、イツベラ、ウナなど、各移住地の営農成績を集 計し、畑を見て融資の書類を作った。「ノルデスチのコロニアは皆、食べていくのは大変だったね」。中には「この人たちはやっていけるのかと思うような」状 況の移住地もあった。うまくやっている人がいる一方、「何もできない人」もいた。そこには、移住地の条件、環境の厳しさだけでなく、個々の向き不向きとい う現実もあったと振り返る。

 早く転出した人、日本政府に嘆願書を出した人、日本から来た代議士に直接陳情しようとジープ でレシフェに向かう途中、事故で多くの重傷者を出した移住地もあった。坂口さんは、困難の中で生きる移住者の姿を思い出す。「諦めもあったかもしれないけ ど、自分が行きたいと思って来たんだから、どんな所であってもやっぱり自分たちで何とか頑張るというふうに思ってやっている人が多かったよね」

 現在各移住地に残る入植家族は少ないが、場所によっては別荘地になって土地の値段が大きく上がった所もあるという。「人生っていうのは本当に分からないよね」

 郁代夫人と結婚後、70年代初めに天理教の布教所を開いた。日本で資格は取っていたが、「ブラジルで布教することは考えない」と親に言って来た。それでも始めたのは、「年を取って自分の限界が分かり、親のやっていたことが大切だと思うようになった」からだった。

 事業団の仕事を続けながら、レシフェ近郊のアルデイアに建てた布教所で数年間。76年に事業団を退職後、81年に日本の大教会から支援を受けてレシフェに「ノルデスチ芳洋教会」が完成した。同時にレシフェ文協とのかかわりも深まる。

 海上自衛隊練習艦隊の歓迎を目的として72年に設立された同文協。以前は戦前から同市に住む玄場氏ら5、6家族による日本人会があったが、名前だけになっていた。

  初代会長に就いたのはサドキン電球工業創業者の山本勝造氏。当初は設立に反対したが、総領事らの説得で引き受けたという。「年寄りは入れないと言って若者 ばかり集めたから、初めのうちは古参の人が怒ってね」。山本氏に誘われ、事業団退職後の78年に副会長を引き受けた坂口さん。その数年後、地方に住む子弟 の勉学のための学生寮建設の話が持ち上がる。

 事業団の資金援助があるが、土地は文協が用意しなければいけない。坂口さん が相談すると、山本氏は自身のアパートを提供し、運営も坂口さんに任せたという。「責任をもって運営にあたる」約束を守るため、教会の近くの土地に建設し た。以来、現会館ができるまで20年あまり、寮は文協事務所としても役目を果たした。「山本さんには本当に世話になっているんですよね」。自身も84年か ら6年間会長を務め、JICA現地法人解散後の協会運営に尽力した。

 役員のかたわら、夫妻で長年続けたのが子弟への日本 語教育。「やっぱり日本人だからね。我が子にも教えないといけないし」。教会で毎週土曜に教え、後に生徒が増えて教師を頼むまでは無料で続けた。他に日語 校はない時代。「レシフェの日系子弟で私の子の年代の子はほとんど教えましたね」。地方の子弟を預かって面倒を見ることもした。

  4年前に娘婿に引き継ぐまで教会を守った坂口さん。その間、行き倒れなど困窮した3人の移住者の世話も引き受けた。タクシーの運転手が連れてきたことも あったそうだ。「日本人だからだろうね」。天理教では「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと」という教えがある。夫人に先立たれ一人暮らし で病気になった男性を引き取った時は、敷地内に小屋を建て、亡くなるまで世話をしたという。

 2005年に旭日双光章を受勲。文協、教会の仕事から離れ、「今は隠居ですよ」と笑う。教会の仕事や信者を連れて何度も訪日しているが、昨年は「子供たちが全部費用を出してくれたんですよ」と笑顔を浮かべる。

  移住して55年のうち半世紀をペルナンブコで暮らしてきた。「今は移住者の孫、ひ孫の代だけど、いわゆる進学率というのはいいと思いますよ」。レシフェ・ ボニート地域の日系人150家族のうち、医者や歯医者はそれぞれ15、16人いるという。その陰には、親の教育への熱意がある。「日系人で子供の教育して いない人はほとんどないもんね。皆学校に行かせているから」。親の期待に応え、社会に根を張っていく子弟たち。「皆良くなっていると思うよ」、坂口さんは 穏やかに話した。(おわり、2013年12月13日レシフェ市で取材、松田正生記者)

2014年12月24日付

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