次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡103  カンポ・グランデ編

自宅前で玉城さん。妻の美津代さんと

親の苦労に応えた子弟たち 「移民と一緒に大きくなった」町
玉城 諚二さん

 カンポ・グランデの町が誕生して15年後に始まった日本人入植。日系人社会100年の歩みは町の歴史と重なり合う。農業で地域の発展に貢献した1世。その背中を見て育った子弟たちは農業以外にもさまざまな分野に進出し、成長する社会の中で役割を果たしてきた。その心は続く世代にも引き継がれ、地域からの信頼を守っている。この町で生まれ育ち、同地沖縄県人会長としても尽力した玉城諚二ジョルジェさん(71)は、「カンポ・グランデ、州の発展に貢献している」と日系人の努力をたたえる。

カンポ・グランデ編

 玉城さんが生まれたのは近郊のマッタ・ド・セグレード植民地。20歳まで同地で暮らし、家族と農業に従事した。父親の松吉さんは17歳の時に呼び寄せで単身カンポ・グランデへ。使用人や洗染業、農園労働者などを経て資金を貯め、植民地に土地を買ったそうだ。「父が着いた時は良くなっていたけど、最初の移民やペルーから来た人たちは苦労したと思います」

 1917年に開かれたセグレードは近郊で最初にできた日本人植民地。川を挟んだ東西に約40家族が暮らし、コーヒーや野菜栽培などに従事した。「大半は沖縄の人。他県の人は数えるほどでした」

 玉城さんは8歳から植民地の小学校に通い、午後から家の農業を手伝った。同校は1世の親たちが子弟教育のため36年に開いたもの。日本語や裁縫も教えていたそうだ。会館は入植者の親睦の場。「運動会や新年会、沖縄角力(ずもう)もやっていましたよ」と懐かしむ。

 植民地からカンポ・グランデの中心部までは約5キロ。小学校を終えてからは自転車で町まで通い、帰宅後は家の仕事という生活。14歳からは父親を手伝い、町の市場で野菜、バナナなどの生産物を販売するようになった。

  当時はまだ中央市場でなく、野天の青空市が中心。「野菜を売っているのは99%ウチナーンチュ(沖縄県人)でしたよ」。市場が開くのは午前1時ごろから。 玉城さんたちは午前3時ごろから売り、午前中には片付けて植民地に戻っていたそうだ。「当時のブラジル人は野菜の食べ方が分からなかった。日本人が来て野 菜を作って、食べ方も教えたんですよ」

 1世の教育への熱意に応え、子弟たちは学校を終えて農業以外の分野にも進んでいった。玉城さんも19歳まで農業を手伝った後、町に出て民間銀行、後にブラジル銀行に就職した。カンポ・グランデの県人会に参加するのもそのころからだ。

  ちょうど県人会が文化体育協会から分かれ、大城武盛氏を先頭に自前の会館建設が進んでいた。2世も協力したが、中心になったのは1世。「皆持ち寄りで、手 分けしてね。日曜なんかヤマ(植民地)から年長の人と来て手伝った」という。「1世は会を大事にしていた。何かあった時は皆で行って手伝っていました」と 振り返る玉城さん。「カンポ・グランデの県人の歴史は1世が作ったと思う」と強調する。

 大城氏の発案でできた青年会にも 加わったが、転勤でパラグアイ国境のポンタ・ポランへ。11年後にカンポ・グランデに戻り、94年に銀行を退職した時は南マ州(マット・グロッソ・ド・ス ル州)の副支配人まで務めた。仕事が忙しく離れた時期もあったが、70年代から現在まで県人会とのかかわりは続く。2002年から副支部長、07年から5 年間支部長を務め、県人会創立85周年式典、08年の移民100周年祭典で先頭に立った。

 副知事、議長ら母県から多数の慶祝団をカンポ・グランデに迎え、3日間にわたった100周年の記念行事。「とても心配したが、皆さんのご協力をいただいて大きなお祝いができた。とても楽しかったよ」と笑顔を浮かべる。

 会員数498家族の大所帯。支部長としての5年間を振り返り「銀行の仕事をしたから、運営はあまり難しくなかったけど、人間関係は頭を使ったよ」と話す。「どうしたら人が集まるか、または付き合いなど、とても私の勉強になったと思っています」

 植民地会の会長を務め、学校創立者の一人だった父・松吉さんは、町に出てからも20年以上理事として県人会を手伝った。野村流古典音楽の師範で、週に1度の三線(沖縄三味線)会には「いつも友人が集まって弾いていました」と思い出す。「父は三線には夢中でしたね」

  「カンポ・グランデの県人会は皆協力していると思う」。玉城さんも長年県人会を手伝い、今は弁護士の傍ら評議員会長として見守る。「移民が伝えてくれた文 化や習慣を尊敬しているから、できるだけ協力したい」。今は音楽も舞踊も、県系以外の若者も参加して続いているが、指導者の高齢化など心配もあるという。

 3世4世、5世の時代になっても「生活など、他のことでは間違いないと思うけど、文化のことを考えたら不安」と話す。「今は移民が来ないし、メスチッソ(混血)の時代になるから。文化を残すのは必要だと思うけど、ちょっと難しくなるかもしれない」

  沖縄県人移民が土台を築き、今も7割近くを県系人が占めるカンポ・グランデの日系社会。2014年は最初の日本人定住から100周年を迎える。「あのころ のパンタナールはつらい所。とても苦労してここまで来た」と、鉄道工夫として未開の原始林を拓いてきた先人をしのぶ玉城さん。「県知事にも連絡して、もう 記念行事の準備を始めています」と節目の年への意気込みを見せる。

 1889年にカンポ・グランデの町ができて、移民が入 植したのが1914年。その8年後に県人会ができた。1世が教育に注いだ情熱に応え、子弟たちは社会のさまざまな分野に巣立っていった。農業以外にも医 師、技師、公務員、弁護士など。「日系人はカンポ・グランデ市、(南マ)州の発展に貢献したと私は確信しています」と玉城さんは力を込める。

  カンポ・グランデ市長を務めた現州知事は、かつて沖縄から議員が来た際、「自分の市長時代、私のチームには必ず日本人の子弟がいた」と紹介したという。玉 城さんが県議に州の水族館を見せたいと頼んだところ、州知事自らすべて案内したというエピソードも、同地における日系人への信頼を表している。沖縄そばを 市の文化として守る町。玉城さんは「カンポ・グランデと移民は一緒に大きくなった。一つの歴史になっているんですよ」と語った。(2013年10月9日カ ンポ・グランデ市で取材)(松田正生記者)

2014年2月20日付

コメント1

  • 櫻井 友紀 Reply

    2017年11月24日 at 23:20

    質問です。 現在カンポグランデの人口はどのくらいですか? なかで日系人は何人、何家族いますか? 最新のデータをお知らせください。

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