次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡133 ペルナンブコ編

移住地の自宅で井手辰巳さん。娘の英子さん・金子康一さん夫妻と(2013年12月)

「皆が良くなる」移住地に
地域へ広がったイニャメ栽培
井手 辰巳さん

 1958年の先発3家族から61年まで、計17家族が入植したリオ・ボニート移住地。伐採、開墾から始まった同地で、入植者の生活を支えた生産物も移り変わってきた。トマト、バラ、そして現在まで続くイニャメ芋(ヤムイモ)。いずれも、日本人が試行錯誤で成功させたものだ。2次入植の井手辰巳さん(85、鹿児島)は、そのイニャメ栽培の先駆者の一人。乾季の収穫を可能にした栽培法は地域に広がり、主要産物の一つになった。ボニートで暮らして52年。移住地の世話役も引き受け、「皆が良くならないといかん」と働いてきた。

 関東軍航空隊の整備士として満州で終戦を迎えた井手さん。シベリア抑留は免れたが、満州、朝鮮半島で数年間働きながら放浪したという。移住を決めた時は炭鉱を経て農業をしていた。「ブラジルがブームだった」時代、「私も行ってみようかなと、気安い気持ちでしたね」。25町歩の土地がわずかな資金で手に入ることも魅力だった。

 妻トキエさんと子供4人、甥らの8人で渡伯、61年2月に入植した。雑草が高く伸び、最初の印象は「あまり良い土地でもなさそうだな」。伐採は終わっておらず、「倒すのに大分苦労したのを覚えていますよ」

 レシフェの内陸130キロ、州都への生鮮野菜供給地として計画された同移住地は標高700メートル以上で、雨と水があり、気温も高くない。気候は適していたが、山間部で道は悪く、そして「売れる」ものも中々見つからなかった。

 最初に収穫した大根を、ボニートの町で借りた車でレシフェへ運んだ。「でも誰も買い手がなくて、海に行って全部捨てましたよ」。「食べるのが大変だった」入植初期。7歳だった長女の英子さんは、「朝食べることはなかった」と振り返る。

  最初に「売れた」作物はトマト。63~64年ごろのことだ。青枯れ病のため生産者が少なかった当時、ベレンから種を取り寄せて増やし、ナス科のジュルベバ の木に接いだ。「朝から晩までやっていましたね」。日本人以外に接ぎ木をする人はなかったころ。値段は良く、20キロのトマトで1俵の米が買えたそうだ。 「それで大分助かりました」 しかしその後は「良かったり悪かったりで、値段次第」。レシフェや他州へ移る人もあり、「入ったり出たり」で入植者が半分に なった時もある。井手さんも移転を考え視察もしたが、残った。「ここは水があるし、冬は涼しいし。だからやっぱりここでやろうと」。やがて花の時代が訪れ る。

 近郊バーハの久保洋深氏が始めたバラ栽培。ボニートには73年ごろから広がった。組合を設立し、事業団融資でトラッ クを購入して出荷。移住地の日本人のほとんどが従事した。母の日や恋人の日など「それこそ朝昼晩出していましたよ」。生活は向上し、入植者も増えた。家を 建てかえ、トラクターや土地も買えたと思い出す。「今買おうとしても買えないからね」

 移住地から町への道は悪く、英子さ んの夫・金子康一さんは「雨が降ると道が滑るから、運転手が怖がって降りられないんですよ。俺が代わりにやりましたね」と振り返る。山道をトラックが上が らないため、町にトラクターを置き、レシフェから戻った車を引き上げる、そんな時代だった。

 生産過剰と輸入品流入でバラの景気が終わるのは83年ごろ。移住地もイニャメ栽培に移る。

 井手さんは産地のパライバ州から種を持ってきて、60年代末から栽培していた。同州からは国内ほか、アフリカ系労働者が食すことから欧州へも輸出していたが、乾季は収穫できなかった。

  井手さん、金子武氏らはその乾季の栽培に取り組んだが、「作り方を知らないから失敗して、大分損したよ」。芋が地面から頭を出す。すると苦くなってしま う。試行錯誤を繰り返し、乾季に水をかけることで収穫を可能にした。頭が出る問題は溝を掘って植えることで解決。同時に間隔が狭まり、収量も増えた。

 乾季に備えて40ヘクタール用の溜め池も作った。水かけを手伝った英子さんは、溜め池と畑を何度も往復する井手さんの姿を思い出す。「本当よく働いたね」

 地元の人も食べるイニャメは生産過剰になりにくく、乾季には値が上がる。「それで皆だんだん増やし始めた」と金子さん。「皆井手さんのやっていた通りに作る。今でもブラジル人がやっています」。栽培は広がり、欧州にも輸出する地域の主要産物になった。

  「何かここに適したものを植えないといかんと思ってね。色々やりましたよ」。胡椒は気温の下るボニートでは続かず、ポンカンや柿は南から来る量にかなわな かった。「今はイニャメはこうして植えるとなっているから、誰が植えても穫れる。土地も合っているんだろうと思いますよ」。ボニート市は井手さんの貢献を 称え、功労賞を贈った。

 入植初期から数度、15年以上日本人会長を務めた井手さん。「皆が良くならないといかん」という思いがあった。「一人や二人が作ってもだめだから、皆で植えるだけ植えて、それでレシフェに持って行っていましたね」

  初期の苦しい時代、何度もレシフェの移住事業団へ直談判に行き、外務省に手紙も書いた。「アジューダ(協力)してくれと。こんな所に押し込んでおいて何 だ、放ったらかしじゃないかと、大分ガタガタやりましたよね」。事業団も「どうしたらいいか分からない」ようだった。「だけど、後で大分アジューダしてく れたよね」

 移住後3人子供ができ、今は孫ひ孫が20人以上。「来た当時は、きつい時には食べるやら食べないやら分からな い調子だったけど、今は一応安定していますよね。ひもじい思いはしとらんから」。2004年に旭日単光章を受勲。今年の85歳の誕生日は国内、日本で暮ら す子供たちがそろって祝ってくれたそうだ。

 現在は本を読んだりテレビを見たり、散歩をしたり。「何もしてないです」と笑う。移住して52年。井手さんは「まあ、こんなもんだろうと思いますよ」と話し、冗談めかす。「私の頭だからこの程度でしょ。日本にいたとしても似たようなもんじゃないかな」

  長年暮らすボニートは「住めば都」。レシフェに遊びに行くこともあるが、「早く帰りたいですよね」と微笑む。「やっぱりボニートは住みやすい所だと思いま すよ。これという問題はないしね。日本と変わらんのじゃないかな」(2013年12月12日リオ・ボニート移住地で取材、松田正生記者)

2014年12月17日付

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