次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡134 ペルナンブコ編

佐藤忠恒さん。長年親しむボニートの町で(2013年12月)

農業と人も育てた日系人
ボニートとともに半世紀
佐藤 忠恒さん

 州都レシフェへの生鮮野菜供給を目的として開設されたリオ・ボニート移住地。半世紀前の入植初期、同地の日本人は、ブラジル人に野菜を「食べてもらう」前に「知ってもらう」ことから始めなければならなかった。作っても売れない。その苦労が、さまざまな野菜が市場に並ぶ現在の礎になっている。日本人と働いたブラジル人が独立し、今、地域の農業を担う。野菜とともに人も育てたボニートの日系人。今も暮らす佐藤忠恒さん(78、長野)は52年間、移住地とボニートの町の変遷を見つめてきた。

 長野県の豪雪地帯で育った佐藤さん。渡伯前は東京でセールスの仕事をしていた。「従兄弟がブラジルに行こうというから、そういう話があるなら行ってみようかという軽い気持ちでしたね」

 従兄弟の構成家族となり、第2次9家族の一人としてレシフェに到着したのは1961年2月。26歳だった。ボニートに着いた時はカーニバルの最中。「大歓迎と喜んだら違ってね。皆ずぶ濡れにされて、ひどかったよ」

 移住地はレシフェの130キロ内陸にあるボニートの町から7キロ。「ここは僻地開発で選ばれたところ。先発隊ですよね。農業者はいないし、肥料の 名前も扱いも知らない。日本人の農業者を入れて開発しようということで入ったんです」。長野、山形の指定地で、長野県人が多かったという。

 入植した土地は「林ばかり」。「来て1年くらいは伐採、抜根、開墾ですよね。そこから始めたんですよ」。そして野菜を作ったが、売れなかった。「初めはそれが何か分からないんだよね。野菜を食べない人たちだから」

  日本から持ってきたものもなくなり、「瀕死の苦労をした」。「日本へ返せなんて運動までやったこともありますよね」。領事館や、県庁にも嘆願書を出した。 「出てくる時と着いた時で話が違うと。でもあのころ日本は貧乏してたから、金を取るどころか、ただなだめられただけですよ」と笑う。

 2年目には「生活は火の車」。「日本人は食べ物がなくて青いバナナを食べてると、そんな噂もあったよね」。教会の神父が食料を届けてくれたこともあったという。「各家庭に配ってくれてね。あれは助かりましたよ」

  63年に同船で入植したけいこ夫人と結婚した。「インクラ(農地改革院)の人も手伝ってくれてね」。ボニート入植者で初めての結婚。着物姿の式の様子はグ ローボ局で全国放送され、「サンパウロやパラナの同船者から『お前のカザメント見たぞ』という手紙が来ましたよ」と思い出す。

 入植当時、ボニートの町は家が点在する田舎町。銀行も郵便局も、通信施設も何もない。「店は1軒だけ。車は2台しかなかった」。農業用の道具も、肥料さえ売っていない、そんな時代だった。

 手探りの農業でトマトやキャベツを栽培した。「市場に行ったらトマトがあって、あるから売れるだろうと」。値が良く、「トマトさえ作れば金になる」時期もあった。

  そのほかにあったのは芋類ぐらい。葉野菜やスイカ、メロン、ナス、かぼちゃ、きゅうりなど、「今ここの町で何十種類とある野菜はみんな、我々日本人が来て 労働者と一緒に働いて作ったんですよ」と佐藤さんは話す。「その労働者が皆独立して、各自生産してそれが出てくる。開拓のころは自分みたいな小さな農業者 でも30人くらい使っていたんだからね」

 レシフェに初めてメロンを出荷したのは佐藤さんだったという。しかし「知らない から誰も買ってくれないんだよ。最初は300キロぐらい持って行ったけど全然売れなかった。その次にやっと売れた」と思い出す。今も地元では、白菜は一般 的なコウベ・シネーザでなく「ハクサイ」。「俺たちは知らないからハクサイ、ハクサイって売ってたから。いまだにハクサイですよ、この辺じゃ」

  生活が安定したのは「10年くらいたったころでしょうね」。インクラ提供のトラックに移住地の生産物を乗せ、週に2回レシフェへ。「ドーノがカミニョンの 上に乗っかって売りに行って、食料を買い込んで」2日がかりだった。留守を預かるのは夫人たち。「うちのかあちゃんなんか労働者の監督ですよ。いまだに監 督やっていますからね」

 70年代から80年代まで続いた花卉栽培の時代。為替切り下げによるコロンビア、ボリビア等の輸 入品流入で景気は終わったが、最盛期はバラだけで5万株を植えていたという。その後広がったイニャメ栽培は今も続く。2~6月の出荷期には、移住地と周辺 地域から十数台のトラックが毎週レシフェ、北東伯各地へ向かい、欧州にも輸出されている。「それでこの町が潤っているんです」

  乾季のイニャメ栽培はボニート入植者から始まったが、現在従事している人はいない。「労働者が芋づくりを覚えて家族でやるようになったから。人を雇って生 産したら割が合わないんですよ」。佐藤さんも3年前にやめ、現在はカスミ草が専門。週2回ほどレシフェに出荷しているそうだ。

  今年で渡伯52年。移住地で暮らし、移り変わる地域の中で働いてきた。「日本的に考えたら大したことはないけど、ブラジルの地方の発展のために尽くしたと いうことでは、移住としては一応成功ということですよね」。ボニート市の人口は現在約4万人。「日本人が来て、色んなものを作って見せて、労働者が一緒に 働いて。その人たちが今この辺の農業経済に貢献しているから」と笑顔を見せる。「この地方ではこの周辺の労働者が一番働いていますよ」

  「今、移住者で夫婦そろっているのは俺たちぐらいじゃないかな」。移転した人、亡くなった人のほか、出稼ぎに行った人もいる。自身も出稼ぎを考えなかった わけではないが、「やっぱり農業者だからな」。「行ったら何もなくなっちゃうよね。機械はさびるし、泥棒が皆持っていってしまう。それを考えると行けな かったね」。まだ日本へ行ったことはない。「あちこち遊びでは行ってるけどね」

 娘を事故で亡くしたが、息子が現在レシ フェで暮らしている。孫は3人。自分たちは俳句も趣味の一つだ。「山あり谷ありだったけど、日本にいるよりは良かったかな」。最近大きなやけどで入院した が、医療費はかからなかったという。「老体になってくると、ブラジルはいい所ですよ」

 長年付き合ってきたボニートの町。息子が町の学校に通う時は、地元のブラジル人が快く引き受けてくれたと思い出す。「中年から上は大概分かるね」と佐藤さん。「いたずらもできないよ」と笑った。(2013年12月12日ボニート市で取材、松田正生記者)

2014年12月19日付

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