次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡135 ペルナンブコ編

春田秀夫さん。自宅で妻秋子さんと(2013年12月)

カモシンで叶えた夢の農業
「ブラジル大好き男」の半世紀
春田 秀夫さん

 レシフェから内陸に約120キロ、ボニート市近郊のカモシン・デ・サンフェリクス市。春田秀夫さん(72、石川)はこの町に47年暮らし、農業を続ける。子供のころから願っていたブラジル移住を実現したのは22歳の時。「大きな農業をやりたい」という夢を叶えたのは、ペルナンブコでの出会いだった。今も畑で一日を過ごす春田さん。「農業が好きなもんだから、やめられないんですよ」、日焼けした顔がほころぶ。

 「小さな時から、ブラジルに行くんだ、と言っていたらしいです。なぜ言い出したのか、私も分からないし、家族も知らないんですよ」

 移住のために名古屋大学農学部へ進んだが、高校時代にはブラジルの石川県人会長に手紙を書いたこともあった。「今行くのがいいか、大学を出たほうがいいか」と。会長からの返事は「急いで来ることはない。大学を出てからでも十分」。それから受験勉強を始めた。

 大学では果樹栽培を学び、卒業の年、南米銀行役員の吉雄武氏が訪日した機会に東京まで訪ね、同氏の呼び寄せで渡伯した。ブラジル行きの船に乗ったのは64年、卒業式の1週間後だった。

 サンパウロ州プレジデンテ・プルデンテの農業学校へ。同じく吉雄氏の呼び寄せで来ていた若者の中には、後にミュンヘン五輪で柔道銅メダルを獲得する石井千秋氏もいたそうだ。

  春田さんは同校で半年を過ごし、コチア産組のアチバイア試験場へ。当時始まっていたイタリアブドウの休眠打破の研究に従事し、機関誌「農業と協同」にも成 果を発表した。石灰窒素を使った休眠打破の方法は後にペルナンブコ州ペトロリーナで普及し、同地にあるサンフランシスコ河中流域は国内有数のブドウ産地へ 発展していく。

 ペルナンブコへ移ったのはアチバイアで2年を過ごしたころ。後にノルデスチでバラ栽培を始める久保洋深氏が試験場の同僚だった縁で、久保氏の同船者が同州バーハ・デ・グアビラーバで手がけるジャガイモ栽培に誘われたのがきっかけだ。

  最初は、政府の大規模灌漑事業が行われているペトロリーナに興味を持ち、コチア農事部長の紹介状で視察にも行ったという。しかし、結局移り住むことはな かった。ブドウ栽培はまだ始まっておらず、「施設は立派なのがあるが、個々の農家はほとんど成果が上がっていなかった」ころ。「道はないし、いつもテコテ コ(セスナ機)を使うことはできないし。ここまで来る勇気はないと思ってね」

 バーハに移り、ジャガイモ栽培を始めた春田 さん。当時はサンパウロからの輸送に頼っていたジャガイモを州内で供給する計画だったが、青枯病でイモが育たず、同地での農業は半年ほどで断念する。その 時に新たな道を開いたのが、もう一人同州内でジャガイモ栽培を手がけるエミリオ氏との出会い。肥料会社の傍ら農場も営んでいた同氏。その農場の場所がカモ シンだった。

 「自分は資金がないのに、人と機械を使って大きなことをやりたいというのがあったから」。エミリオ氏の誘いでカモシンへ移り、以後30年続く共同経営の農業者としての生活が始まった。

 最初は苦労も味わった。1年目のジャガイモが好調だったことから、2年目は30ヘクタールに植え付け。しかしその年、収穫前の長雨に見舞われ、イモが地中で腐ってしまう。「大損しちゃって、借金返すのに5年かかりましたよ」。その苦境を助けたのが花の景気だ。

  70年ごろに久保氏が始めたバラ栽培。需要が増え、春田さんやリオ・ボニート移住地の入植者たちなど、「日系人が皆バラを植え始めた」。移住地では組合を 作って出荷、春田さんはバスでレシフェへ送り、エミリオ氏が販売した。「朝4時のバスで送るんですよ。毎日それをやりましたね」

  バラの収入でジャガイモの借金も返済し、74年、「10年で一度帰る」約束を守って日本へ行った。その時に、移住事業団の元レシフェ支部長の世話で秋子夫 人と知り合う。意気投合し、「その日のうちに結婚が決まって」と笑顔で話す春田さん。日本で結婚し、秋子さんが後から渡伯した。「それからずっと一緒で す」

 「いくら増やしても売れるぐらい」需要があったと振り返るバラの景気。レシフェだけではさばけず、隣州のナタルや フォルタレーザまで送るほどだったが、生産過剰と輸入品流入の影響で83年ごろに終わる。「日本人は皆ばたっとやめましたね」。その後、唯一バラを作った ブラジル人は「丸儲け」したとか。

 バラの後は菊の栽培に移り、野菜栽培やバーハで牧畜も手がけた。菊は現在も続け、息子も別に栽培しているそうだが、春田さんが出荷するのは年に3回だけ。お盆など「どれだけ作ってもいいものなら売れる」時期に合わせているという。

  野菜づくりで狙うのは、「できるだけ、ここの人が作れないもの」。日本キュウリやセロリ、アーリョ・ポロー(西洋ネギ)など、標高の高い農場の気候を利用 して栽培し、セアザやレストランに卸す。サンパウロ方面から運んでくるこれらの野菜は値も良く、トマトのような相場の上下もない。「今は普通に作っても手 間賃にもならないから、誰も作れないものを作らないかんなと。今作っている野菜なら年間ほぼ同じ値段で出せるから」

 他の農業者で栽培に挑戦する人もいるが、最初はよくできても続かないという。「私のように年中切らさずあるというのは、やはり技術がないと。アーリョ・ポローでもこんな所でできるはずないと言われたしね」

  今は「一応安定している」が、「一番苦労したのは労働者の問題だった」という。「金もないのに人を使って大きくやるという主義だったもんだから」。一番多 い時で200人が働いていたという農場。「部署ごとに担当がいても、最後の責任は自分に来る。やっぱり頭を悩ませたよね」

  ブラジルへ来て半世紀。そのうち47年をカモシンで暮らしてきた。「私はブラジル大好き男でね」と笑う春田さん。「それにカモシンがものすごく好きなんで すよ」。暑すぎず、寒くもなく、「住むには最高の所です」。この土地で3人の子供が育った。移民100周年の2008年、外務大臣表彰を受けた。

  後にエミリオ氏の土地を買い取り、カモシンの農場は現在33ヘクタール。「いつも気が張っているからね。朝起きたら、今日はこれ、と。病気になっている暇 はないですよ」。春田さんは今も毎日、朝から弁当を持って農場に通う。「(夫人は)早くやめたらと言うんだけど、やっぱり私は農業が好きなもんだから、や められないの」と微笑んだ。(2013年12月12日カモシン・デ・サンフェリクス市で取材、松田正生記者)

2014年12月20日付

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