次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡136 ペルナンブコ編

レシフェの自宅で岩田さん夫妻(2013年12月)

苦労があったから今がある
夫婦の努力で育てた養鶏場
岩田 健一さん

 北東伯有数の養鶏場を経営する岩田健一さん(62、長野)は7歳の時、一次入植の一人としてリオ・ボニート移住地に入った。移住地初期の困難な時代に育ち、移転後も農業を続けながら連邦大農学部を卒業。日本研修で知り合った夫人と二人三脚で育てた養鶏場は今、70万羽を飼う。本業のかたわら、レシフェ日本文化協会会長として会館建設にも尽力した岩田さん。「苦労があったからこそ今がある」と54年の歩みを振り返る。

 同州最初の日本人集団地リオ・ボニート。第一陣5家族は1959年1月レシフェ港に到着した。岩田家は父母、子供6人と叔父。「ブラジル人のお偉方が出迎えてくれてね。バスで(130キロ離れた)ボニートへ行く時にパイナップルを切って食べさせてくれましたよ」。日本人は珍しく、「皆じろじろ見るんですよ。何だかおっかなくてね」と思い出す。

 伐採から始まった生活。入植者は野菜の種など持参していたが、「何を作ったらいいか分からないんですね」。「大根なんか作ってボニートの町に売りに行くけど、『これ何だ』って一つも売れない。結局捨てて、それからここの人が何を食べるか調べて植え始めたんです」

 長男の岩田さんも学校に通いながら働いた。毎朝のランプ掃除、畑仕事。野菜のため裏の牧場で糞拾いもした。「手づかみでやっていましたよ」と笑 う。畑の消毒では「普通に薬をかぶっていましたね」。夜には目が回り、ビタミン注射も打った。「(同じ一次で後に医師になる)岡崎さんと話すんですよ。毒 かぶりながら、よくやったなって」

 苦しかった入植当時、「帰れたら帰りたい気持ちだったかもしれない」と家長らの気持ちを想像する。「でもやっぱり意地があるからね。帰らなかった。ほとんどがそうだったと思いますよ」

 数年後トマトが当たり、レシフェにも出荷して生活を助けた。余裕ができ、他所に土地を買って移転する人もいた。岩田家もレシフェ郊外トラクニャエンに土地を得て64年に移る。子供の学校のためでもあったという。

 ボニートで最初に鶏を飼った父・国一さんは、借地の野菜作りを経て68年から近郊パウダーリョで本格的に養鶏を始めた。2万羽の採卵養鶏。飼料の確保が難しい当時では大きな規模だった。

  岩田さんは別の土地で野菜作り。家はなく、木に吊ったハンモックで寝る生活をしながらペルナンブコ連邦大農学部に入学した。生産物を積んだトラックで午前 2時半ごろレシフェへ出発、「時間がない時は積んだまま学校に行って、空いている時間にセアザに卸して」という毎日。「家がなかったから、大学に行く時は いつも汗びしょびしょでしたよ」

 在学中の77年、JICAの農業研修で訪日の機会を得た。「いいかげん疲れたから、大学 は中途半端で行っちゃったんですね」。千葉県で2年、畜産、果樹、野菜、花卉を学び、京成バラ園ではバラの育種家として知られた鈴木省三氏にも教わった。 「こういう人は今の日本にいないって、可愛がってもらいました」。日本で夫人の和子さんと知り合い、結婚した。

 帰伯後79年に大学を卒業し、養鶏の世界に入る。最初は父親と一緒にやったが、やがて独立。JICAの融資等も受けてレシフェの空港近くに土地を買い、養鶏と野菜作りを始めた。「そこから始まったんですよね」。

  夫婦でスタートした養鶏場には、「夢を持って大きくしよう」という思いを込めて「JUMBO」と名付けた。隣市オリンダに店を借りて卵・鶏や野菜を販売。 土曜の夜に閉店後、日曜の早朝には開ける休みなしの生活で、岩田さんは卵の運搬で店と養鶏場を往復した。「あのころは自分でも良くやったなと思うよね」

 和子さんも一日を店で過ごした。子供が生まれた日も出産数時間前まで店にいたそうだ。「生まれそうだからタクシーをつかまえて一人で病院に行って。友人に話したら驚いていましたよ」。岩田さんは「よく働いてくれたよね」と振り返る。

  徐々に他の土地でも鶏舎を増やし、事業を拡大。インフレ時代は飼料代の資金繰りで苦労もした。「今日払わないと明日は値段が違う。あれが一番困ったよ ね」。いい時も悪い時もあったJUMBOの30余年。現在、70万羽の養鶏は北東伯で4、5番目の規模、うずらは州内最大の10万羽を飼い、隣の州にも卵 を出荷する。06年、岩田さんは州養鶏業への貢献により日系人で初めて名誉州民章を受けた。

 本業と共に力を注いだのがレシフェ文協の仕事。2001年から6年間、会長として会館建設に尽力した。

  学生寮はあったが会館はなく、行事や日本語学校は近くの天理教会で世話になっていた。建設に日本政府の支援は期待できず、反対もあったが、「やってみない と分からないじゃないかと」。「総領事には『お前がやるなら俺も手伝う。責任を取る覚悟はできているか』と言われたんだよね」。会の資産と、役員が奔走し て資金を集め、05年に現在の会館が完成した。

 完成後始めた日語校は現在も続く。「今までばらばらだった人が集まってきていますよね」。岩田さんは「盆踊りとか、見たことがない人がいっぱい来ている。会があることを知って、『これから来る』とか言ってくれますよ」と喜ぶ。ゲートボールも盛んだ。

  同地の「レシフェ日本市」は17年目。人数は少ないながら、移民100周年に州議会で記念式典が行われ、市内に記念碑も建設したことは、地域における日系 の存在を感じさせる。「町に入る人は必ず見る場所です」。寄付してくれた進出日系企業の社長への感謝とともに、「また来たか」という顔をされた市役所との 交渉なども思い出だ。

 2人の息子は大学を出て養鶏の仕事を始めた。鶏舎の自動化など「新しく出発しています」。今も毎朝 養鶏場に通う岩田さん。「子供たちに任せているから適当にやって帰ってきますよ。これからは旅行とかも楽しまないとね」と言いながら、「こっちから見る と、つい言いたくなっちゃう」と苦笑する。「自分と同じように苦労していないから、何でこれができないかって。彼らにしたら簡単じゃない。(夫人に)いつ も怒られるんですよね」。ただ、子供たちには「今日できることは全部今日やりなさい」と伝えている。

 今年亡くなった父親 はボニートやレシフェで日本人会長を務め、叙勲も受けた。「夢を持って広いところで一旗上げてやろうという気持ちで来た」父。一番下の弟は0歳だった。 「小さな子供を連れて全然知らない所に、自分だったらちょっと行けないよね」。「無責任だ」と言って怒られたこともあった。「今なら良かったと思えるけ ど」

 移住して54年。岩田さんは「最初の10年は本当に辛かったけど、結婚して独立してからはやりたいことがやれた」と 笑顔を浮かべる。「今まで苦労してきつかったけど、それがあったからこそ今こういう生活ができるんだと。やっぱり感謝していますよね」(2013年12月 12日レシフェ市で取材、松田正生記者)

2014年12月23日付

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