沖縄戦経験の日系2世㊦ 捕虜生活、家族の死

沖縄戦経験の日系2世㊦ 捕虜生活、家族の死
戦後3年が経った頃の具志頭中学校の写真(同校創立20周年記念誌より)

「よく生き延びてきたなと思う」

 アメリカ軍の沖縄本島上陸を受け、沖縄県北部にある久志村(くしそん、現=名護市)の山間に身を隠すこととなった高橋都美子さん(86、2世)の一家。竹やぶが多かったことを利用し、竹の葉をトンネルのようにつなぎ、その下に隠れながらの生活が始まった。しかし、そこでの生活は食糧難や雨季の雨に耐える過酷な日々。「もう、死のうと思った」と感じるほど、精神状態は極限に近づいていた。

 山間に隠れる生活が4カ月近くになろうとしていたある日、車道がなかったにも関わらず米兵の一隊が同村まで到達。ハワイ出身の日系2世の米兵が日本語で、隠れていた日本人らに投降を呼びかけてきた。しかし、誰も応じなかったため、銃を装備した米兵らに無理矢理連行され、全員が地面に並んで座らされた。

 その時、高橋さんの母親は日本国旗を所持しており、米兵はそれに目をつけた。子供らのブラジルのパスポートが国旗に包んで隠されており、米兵はそれを見つけると、じっと眺めていたという。高橋さんは戦争が本格化する前、伯国のパスポートを所持していたことで、地域の巡査からよくスパイと疑われていたことを思い出していた。「もう駄目だと感じ、母の背中で泣いていた」が、米兵からはすぐにパスポートが返却された。

 その後、隠れていた日本人らは捕虜となり、山道を上り下りして車道がある4キロ先の地点まで歩かされた。空腹で骨と皮しかなかった高橋さんらは何かに捕まらないと歩けないような状態だったが、どうにか下山。トラックに乗せられ、米兵がテントを張った2キロ先の地点まで運ばれると、一つのテントに何十人もが押し込まれての共同生活が始まった。窮屈ではあったが「雨が降っても大丈夫だ」という喜びがあり、また米兵からお粥(かゆ)が配給され、久しぶりに米を食べることもできた。しかし、このような時でも「日本の軍国教育は徹底していて、米兵からお米を食べさせてもらっているのに、『日本は負けていない。これは日本の作戦。そのうち友軍機が来て助けてくれる』と噂が広がり、それを信じて疑わなかった」という。

 しばらくすると、テント内で悪性のマラリアが大流行。山間に隠れている日本兵を殺害するために米兵が菌を蒔(ま)いたのだと噂が流れた。高橋さんも感染し、髪の毛がすべて抜け落ちてしまう。墓を作る場所がなくなるほど毎日誰かがマラリアで亡くなる日々が続き、高橋さんの祖母と弟も命を落とした。「母は本当に落ち込んでしまって」とその時を思い出すと、高橋さんは表情を曇らせた。

 そして、8月15日に終戦を迎える。高橋さん一家は解放され、具志頭村に帰ることになったが、同村がある沖縄県南部の島尻地域は同県内でも特に激しい上陸戦が行われた地域。爪痕は大きく、不発弾が多く残って危険なため帰れない状態となっていた。隣接する玉城村(たまぐすくそん)は比較的安全だったため、しばらくそこに滞在し、その後に具志頭村に戻ることとなった。帰村後は掘建て小屋を建て、自給自足の生活を開始。捕虜として終戦を迎えた高橋さんらは依然、終戦したかどうか分からないような状況だったが、学校が再開され、農業の傍ら通い始めた。「戦後すぐの混乱期でも日本人は教育に力を注ぐんですね。青空教室に空き箱を並べて授業をしていました」と当時を回顧する。

 その後、高校、大学と進学。琉球大学在学時には、沖縄の様子を見に来た伯国からの新聞記者と面会する機会にも恵まれた。記者は伯国帰国後、高橋さんの父に面会時のことを話したそうだが、「父は恐らく勝ち組派だったと思う。その話を信じなかったと聞いた」そうで、父親とは戦後も音信不通の状態が続いた。

 大学卒業後、高橋さんは母校具志頭中学校に教員として赴任。新人教師として充実した日々を送っていた。しかし、上原旅行社を通じて「父親が伯国は平和だから帰って来いと言っている」という一報が入ると、一家で帰国を決意。ブラジル人でありながらも父親からの「呼び寄せ」という形で1955年、18年ぶりに母国ブラジルに帰国した。

 伯国帰国後は日本語教師として日本語教育の発展に尽力。現在も教鞭を執っている。戦争体験を振り返り、高橋さんは「今考えると、よく生き延びたなと思う」としみじみと語り、「損したことも多かったが、得したこともたくさんあった」と話すと笑顔がこぼれた。「『欲しがりません、勝つまでは』という標語があったでしょ。あの精神で鍛えられたから。今でも少々のことは我慢できるし、当時に比べたら辛いことだってなんてことはない」と、どんな逆境も乗り越えてきた。

 生徒や同僚を置いて伯国に帰国したことを後悔したこともあったが、今は伯国に来て良かったと感じている。「子供も孫も日系のブラジル人として安心して暮らしている。普通の生活ができること、それが一番幸せだと思う」と晴れ晴れとした表情で語った。(おわり)

2017年8月16日付

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