輝き続ける花嫁移民㊥ 思わぬ形で渡伯した森下和代さん

輝き続ける花嫁移民㊥ 思わぬ形で渡伯した森下和代さん
森下さん
輝き続ける花嫁移民㊥ 思わぬ形で渡伯した森下和代さん
大会で詩舞を披露する森下さん

 現在、ブラジル祥こう流吟剣詩舞道の森下祥星として、理事長を務める森下和代さん(77、熊本)。森下さんは、思わぬ形でブラジルへやって来た花嫁移民だ。

 中学卒業後、准看護士の資格を取得していた森下さんは、親友からの頼みで、親友の伯父が山口県阿知須町(現=山口市)で経営していた病院に勤務。朗らかな性格で病院内で人気者だった森下さんには、病院関係者や患者の息子の嫁として、多くの見合い話が舞い込んでいた。

 その中でも、後に結婚した長尾勝二さんの父親からは特に見初められており、ブラジルに住む息子の嫁として森下さんに白羽の矢を立てていた。ある日、下関に住む親友の家に遊びに行くため休暇をとった森下さん。長尾さんの父親は、その隙に病院の事務局長から森下さんの実印を入手し、婚姻届に判を押し提出するという驚きの行動に出た。

 事態を知った森下さんの父親は激怒。「裁判にかけてでも離婚させる」と息巻く中、当の森下さんは「戸籍を盗む事件は世の中でも起きているし、私に起きても不思議じゃない」と意に介さない。挙句、「今離婚したら、離婚者になってしまう。それならば、このまま結婚したほうが良い」と父親を説得し、この結婚を承認したのだった。

 その背景には、ブラジルへの淡い憧れがあった。「ブラジルには金の成る木があるんじゃないか」と思っていた森下さんだが、金の成る木は渡伯後にソロカバの大農場で発見することとなった。夕焼け時、農場の広大なオレンジ畑が夕陽に照らされ黄金に輝く。それを見た時「これこそまさに金の成る木だ」と思わずにはいられない美しさだったという。

 1961年8月13日、「チチャレンガ号」でサントスに到着。長尾さんとの初対面を果たす。第一印象は「あ、これはお人よしだ」。当時長尾さんは、サンパウロ(聖)市で庭師として働いていたが、客に頼まれると、庭整備の代金をまけてあげることも多かったそうで、第一印象は当たりだったと後に判明する。しかし、「長尾さんの両親もすごく良い人で、ほのぼのした家族。うちの両親や家族も仲が良くて、似たような家族だった。長尾さんと喧嘩したこともない」と似た者夫婦の二人は、3人の子宝に恵まれた。

 子供ができてからは子育てに専念し、家庭を守ることに集中。その中で暇を見つけては音楽や彫金などの趣味に没頭し、「思う存分、好きなことができた時代だった」と当時を振り返る。そんな幸せな日々を送っていた森下さんに、1982年10月、予期せぬ不幸が訪れる。長尾さんがマイリポランから聖市に車で帰る途中、トラックに追突し事故死してしまったのだ。当時、長男は22歳で医大生、末の子はまだ14歳だった。森下さんは山口の病院に戻り、働きながら子供を育てようと決心。しかし、長尾さんの実家に連絡をすると「日本で医大に入れるのはお金がかかる。せっかく医大に入れたのにもったいない」と諭され、伯国に残ることを決めた。

 長尾さんの死後は長尾さんの実家からの養育費援助、そして土地の売却などでお金を作り、どうにか子供3人を育て上げた。「どうやってお金をやり繰りしていたのか覚えていない」と語るほどの大変な日々を乗り越え、51歳の時に再婚。「政治の話ができたり、歌を一緒に歌うことができて、すごく気があった」という、森下正章さんと結ばれたのだった。

 その後、森下さんとは20年連れ添ったが、6年前に心臓の病気で他界。2人の夫を続けて亡くすという不幸に見舞われた。「他の人に比べたら波乱万丈だったと思う。でも自分の性格がこんなでしょ。悩んだり、落ち込んだりしたことはなかった。それに、いつも節目節目で助けてくれる人がいてくれたことも大きかった」。

 喜寿を迎えた現在は、吟剣詩舞道の総範として活躍。また、書道を教えたり、趣味の絵手紙教室に通ったりなど、忙しい日々を送っている。「今こうして好きなことに打ち込めること、そして何より子供たちが良い人間に育ってくれたこと、それが本当に幸せ。色々あったけれど、良い家族や弟子、友人に囲まれて、ブラジルに来て良かったと心から思います」と話すと、大きな笑顔がこぼれた。(取材日=2018年1月31日)(つづく)

2018年3月20日付

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