隠れキリシタン2世夫妻㊦ パパイたちが教えてくれたこと

隠れキリシタン2世夫妻㊦ パパイたちが教えてくれたこと
テレジーニャさんとドミンゴスさん(左から)

 サンパウロ(聖)州コチア市のコチア小学校に通い、農業を手伝いながら幼少期を過ごした真里谷ドミンゴスさん(91、2世)。1937年のクーデターでゼツリオ・ヴァルガス大統領の独裁体制が確立すると、外国語教育は制限されていった。

 ドミンゴスさんが通っていたコチア小学校でも、「遠くから誰かが来るとわかると授業を中止した」と証言する。戦時中はミヤザキさんという近所の人の家でラジオに耳を傾け、日本語のニュースで戦況を聞いていたという。「(日本に)勝ってほしかった」と2世ながらも率直な当時の心境を吐露した。

 昨年、結婚60周年を迎えたドミンゴスさんの妻・テレジーニャ・好子(よしこ)さん(85、2世)の人生には、大戦は少し違った意味を持った。テレジーニャさんは隠れキリシタンが多く暮らしていた聖州プロミッソン市ゴンザーガ村の生まれ。旧姓はノハマで、両親は長崎県の五島の出身。毎朝毎夕の祈りは欠かさず、隠れキリシタンの弾圧の歴史も両親から聞かされて育ったという。

 2歳でコチア市のモログランデ区に引っ越し、8歳頃にはピエダーデ市に移った。家事や父の百姓仕事を手伝い、忙しい幼少期を過ごしたという。「私も担いだんだよ、噴霧器。次はあれ、次はこれ、と次から次へとね」。

 テレジーニャさんが10歳になると、「今まで何もさせてあげられなかった」と感じていた父は、聖市にある日本語学校に行かせようと決め、親戚にもあいさつ回りを済ませた。しかし丁度その夜、ラジオから日本の参戦の情報が飛びこんだ。「そしたらパパイが『日本語なんか話してたらカデヤ(刑務所)に入れられる』って」と声を震わせた。

 そうして出聖と教育への思いも絶たれたテレジーニャさんは、さらに9年、父の手伝いを続けた。

 19歳になると、戦後の混乱も落ち着くのを見た父が、「なんぼ金を使ってもいいから2年間、ヴォセ(お前)の好きなこと何でもやってこい」と言い渡した。元々手作業が好きだったテレジーニャさんは、父の紹介で聖市内の寄宿舎へ移り、日伯裁縫女学校へ。料理やポルトガル語も学び、裁縫の教師の資格も取得。できるだけ多くのことを2年もかからずに学び取り、ピエダーデ市へと戻った。

 一方のドミンゴスさんは、「こんな小さな百姓なんて嫌だ」と兄・マテオさんと家を飛び出し、ソロカバ市近郊で母の叔父にあたる中尾トヨキチ氏の土地を借りて3、4年間、2人で農業をしていた。「ソロカバの市場にカロッサ(馬車)で野菜を週に何回か持っていって販売」して生計を立てたという。

 1956年に結婚すると、翌年にはテレジーニャさんの父の紹介でピエダーデ市のコチア産業組合の出張所で勤務を始めた。それから聖州各地やパラナ州などへと転勤を繰り返し、66年にソロカバ市の事務所の主任になると、当時「大コチア」とまで呼ばれた同組合の盛りを見た。

 組合員の横流しも少なくなく、組合が融資してできた農産物を横流しされたこともあり、常に「利用されないように」気を張りながら責任のある仕事を全うするのが大変だったという。

 88年に定年退職し、30年余りゲートボールを続けてきたドミンゴスさん。テレジーニャさんも一緒にゲートボールを続けてきたが、現在は体調も考慮してカラオケを楽しむ。夫婦ともども元気で、10月9日にはドミンゴスさんの91歳の誕生日を、10月20日にはテレジーニャさんの85歳の誕生日をそれぞれ迎えた。今でも毎日のミサは夫婦揃って欠かさないという。テレジーニャさんは、「パパイたちがフランシスコ・シャビエル(ザビエル)から続くものを教えてくれたのだから、守っていかないと」と語る。

 「とにかく、お陰様で兄弟のうちでも長生きできて」と語るドミンゴスさんに、「気をつけなさい、転ばないようにね」と語りかけるテレンジーニャさん。2人ともかつての苦労を感じさせないような、柔和な笑顔を見せた。(河)(おわり)

2017年12月7日付

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