首里の風来坊① 米国ニューヨーク在住の城間勇美さん

首里の風来坊① 米国ニューヨーク在住の城間勇美さん
当時を回想する城間さん
首里の風来坊① 米国ニューヨーク在住の城間勇美さん
ハワイへ出発する国費留学生一行。2列目右端が城間さん(城間さん提供)

 「1972年の沖縄本土復帰には日本へ帰るつもりだった」―。第2次世界大戦下の台湾に生まれ、終戦により両親の故郷・沖縄県那覇市首里へ引き揚げた城間勇美さん(73、沖縄)。戦後の沖縄で育ち、米国費でハワイ留学時の69年に、沖縄の本土復帰が決定した。「アメリカが全面撤退するなら自分は必要ないと思った」と70年に世界旅行へ出発。ベトナム戦争中のアメリカをヒッチハイクで周り、ニカラグアで中米独裁社会を肌で感じてコロンビアまで南下した後、結婚を機にニューヨークへ移住した。当時、沖縄の人に国外で発行された「日本帰国まで有効」の特殊な日本国パスポートを手に歩いた城間さんにとって、復帰直前の沖縄を外から見つめた時間だった。5月15日で、沖縄本土復帰から満46年が経過した。(2018年4月30日取材)

◆戦後の沖縄からハワイへ国費留学

 大戦下の44年、台湾で生まれ、終戦と同時に1歳で首里へ引き揚げた城間さんは5人兄弟の4番目。首里城近くの城西小学校、首里中学校を経て、1798年からの歴史・伝統を持つ首里高校に進学した。

 当時の沖縄での暮らしを、城間さんは「子どもの頃はB円で生活をしていた」と振り返る。B円は、従来の円札に「B」と印字された1945年から58年まで沖縄本島、奄美群島で唯一の法定貨幣として米軍が発行したもので、城間さんは「沖縄を出てからは見たことがない」と思い返す。

 首里高校では水泳部に属し、バタフライ種目で国体に出場するほどの実力だった。小学校から水泳をしていたという城間さんは、63年の第16回国体に国外からの特別参加として沖縄代表で出場した。水泳だけが福島県で開催された同大会の開会式で、特別に先頭を歩いたそうだ。

 同大会では、特殊な経験もしている。城間さんは「『沖縄から選手が来ている』と色々な人が会いに来た」と振り返り、「戦地に線香をあげてほしい」とひめゆり学徒隊として戦死した女学生を思う女性から頼まれ、大会後に糸満までバスで行き、ひめゆりの塔に献花し、焼香したそうだ。

 高校2年生時の城間さんは、進学を考慮して興南高校に転校し、同校1期生になった。翌年、大学進学を考えていた城間さんは好機を迎える。

 当時の沖縄では「米留」と呼ばれた米軍と沖縄本土の仲介を担う人材を育成する沖縄のみで実施されていた琉球列島米国民政府(USCAR)による特別な国費留学制度があり、それまで大学院のみだった同制度が城間さんが進学する65年度から4年生大学への留学が始まった。応募した城間さんは筆記、面接試験を通過し、書類審査までいった。本土復帰を叫ぶ学生運動が展開された当時の書類審査は、「本人は元より、家族も含めて学生運動をしていないかの確認だった」と話した。

 当時、沖縄から外へ出るためには、USCARが旅券を発行するかどうかが問題で、城間さんは「沖縄で反対運動や学生運動をしている写真を撮られると発行されず、出られなかった。本土にも行けない」と証言する。

 審査に通った城間さんは4年生大学への「米留1期生」として、ハワイ州立大学マウア校への進学が決まった。他にも米国各地の大学へ行く合格者がいたそうだ。

 嘉手納の空軍基地から、米兵数人と他の合格者約30人が軍用機で一緒にハワイ・ホノルルへ向かった。「ハワイはいつも夢見てる国だった」と城間さんは期待に満ちていた。(戸)(つづく)

2018年8月2日付

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