首里の風来坊③ アメリカ出国までの苦悩

首里の風来坊③ アメリカ出国までの苦悩
【右】本土復帰前に国外発行された旅券(城間さん提供)【左】サン・サルバドールで発行された入国証明(城間さん提供)

◆2つの特殊な旅券を手に

 1970年、沖縄の本土復帰に備えて、日本の旅券を申請しにワシントンへ向かった城間勇美さん(73、沖縄)に、同地の在アメリカ日本国大使館で思わぬ出会いが待っていた。

 城間さんは世界旅行へ出発する直前、ハワイ州の在ホノルル日本国総領事館に行き日本の旅券を申請したところ、応対した職員と上手くいかずにハワイで取得しそびれたこともあり、ワシントン近郊に住む友人の家族に会いに行くついでに、大使館に立ち寄った。

 大使館で日本の旅券取得を申し出ると、職員から「勇美!」と名前を呼ばれ、顔を見ると中学校の同級生だったという。同級生の女性は米軍人と結婚して渡米し、大使館に勤務していた。城間さんが中南米、アフリカ諸国へ行く渡航許可(ビザ)取得も願い出たところ、「取得時に、残高を証明するお金はあるのか?」と尋ねられた。

 現在のビザ取得時に求められる残高証明のような項目の指摘だったという。城間さんがお金を持っていないことを話すと、同級生が「夫と相談して金を持って来るから、それを見せなさい」と助け船を出してくれた。希望国を書き、費用を証明した城間さんは「本当に許可が出た。思わぬ再会に恵まれた」と回顧し、そこで取得した旅券について語った。

 大使館で発行された旅券は、米占領下の沖縄の人のみに、本土復帰が事実上決まった69年から72年5月15日の本土復帰までに、日本国外で日本政府から発行された特殊な旅券だった。大使館職員からは「日本に帰国した時に、この旅券は無効になる」と言われ、城間さんは「帰らない限り、永久に有効だと瞬時に思った」と振り返る。さらに、旅券を開いた城間さんは唖然とする。旅券番号を見ると「SFC―000001」と記されており、「当時アメリカで、その旅券を取得する人がいなかったのではないか」と語り、「なぜか分からないがサンフランシスコ(SFC)を基準にした番号だと職員から説明された」という。

 沖縄からハワイへ留学する時に、琉球列島米国民政府(USCAR)から発行された旅券も含めて、当時の沖縄が日米両国間の複雑な環境に置かれていたことを物語る特殊な旅券2つを手に、城間さんは旅を続けた。

 6カ月間のアメリカ横断最終地になるはずだったラスベガスに着き、同地のレストランで中南米へ行く資金稼ぎをしようと目論んだ城間さんは「店主から『お前は市民なのか』と聞かれ、思わずノーと言ってしまった」と話し、「琉球列島米国民政府(USCAR)のパスポートを見せていれば、問題なかったはずだが、日本人だという思いが前に出てしまった」と振り返る。

 直後にラスベガスの移民局から呼び出され、仕方なくUSCARの旅券を見せると、「なんで5月に学校が終わっているのに、12月まで期限があるんだ」と迫られ、「69年の正月(1月)に沖縄へ帰り、ホノルルに戻った時に1年のビザをもらったからだ」といくら言っても通じず、2週間以内の出国命令を捺印された。城間さんは「ワシントンでもらった旅券は何かあったら困るから出さなかった」と話し、移民局で2週間以内の出国命令を出された。

 メキシコ行きやカナダ行きを模索し国境付近の移民局へ行っても全て断られた城間さんは、アメリカ本土へ渡る前に買っていたエルサルバドルの渡航許可(ビザ)を見せて航空券を手に入れ、何とかアメリカを脱した。

 エルサルバドルの首都サン・サルバドールの空港内イミグレーションで、ワシントンで取得した旅券を見せると、「この番号はおかしい。0、0、0、0、0、ウノ(1)?」と言われ、城間さんは「疑われるのも仕方ないが、俺は天皇家の親戚だと言ってみた」と笑う。問答の末に入国許可が降り、「ほっとした。ここからが本当の世界旅行だと思った」と話す。

 空港を出た城間さんは、不意に世の中のニュースが気になり、現地で知り合った人にラジオを借り、英語のニュースが流れないかと四苦八苦していると、聞こえてきた英語ニュースが『三島由紀夫が割腹自殺(70年11月25日)』と読み上げていたという。「信じられなくて、何が起きているのか知りたくて、新聞を読みたくて仕方なかった」と振り返る。(戸)(つづく)

2018年8月4日付

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