【2011年新春特集】高拓生移住80周年①

写真:日本移民を誘致したエフェジェニオ・デ・サーレス州知事
アマゾン移民史研究家 堤 剛太

アマゾン開拓に夢託す
 今から80年前の1931年(昭和6)6月、アマゾン河の中流地帯アマゾナス州パリンチンス郡に20代前後の日本の若者たち四十数人が足を踏み入れた。目的は、アマゾン地方開拓のための中堅指導者となる実地訓練のためであった。「高拓生」と称するこのグループはこの後、7回生まで合計248人がこのアマゾンの土を踏んでいる。
 その後、高拓生たちはアマゾン河流域のバルゼア(湿地帯)を利用してジュート(黄麻)の栽培化に成功。コーヒーや米袋として利用されるジュートは当時、インドからの輸入に頼っていたが高拓生たちの興したアマゾン地方での新産業のおかげで、ブラジルはジュートを逆に外国へ輸出できるまでになった。

 戦後、日本人移民の大集団地サンパウロ地方やパラナ地方より一足先にアマゾン地帯に日本人移民が入植できたのも、このジュートの貢献があったればこそだろう。
 あれから、80年の歳月が流れ、高拓生の生存者はパラナ州在住の清水耕治(4回生)、マナウスに千葉守(4回生)と東海林善之進(7回生)のわずか3人(原稿を作成している2010年12月初頭の時点)となった。3氏ともに、100歳目前の超高齢者である。

 本年10月、その80周年の記念すべき祭典が高拓生の故郷パリンチンス市ヴィラ・アマゾニアで盛大に挙行される予定だ。
 《高拓第一回生は約二ヶ月の長い船旅を終えて、一九三一年六月二十日の夜半、現地ヴィラ・アマゾニヤに到着した。この日からアマゾニヤ産業研究所の第一回実業練習生としての生活が始まったのである。いいかえれば、当時の日本としてインテリの部類に属する学生の一集団が、自分の将来はどうなるか、全く予想のつかない未知のアマゾンに、上塚所長の理想と熱意に全幅の信頼を托し、運は天にまかせてやって来た独身青年ばかりの一集団のアマゾンに於ける団体生活が、この日から始まった、ともいえるのである。》

 この一文は、第1回の高拓生をアマゾンへ引率してきた越智栄の記録からの引用である。第1回高拓生らの上陸第一夜の様子が興味深く書かれてある。もう少しこの記録を見てみよう。
 《河岸から緩やかな坂を約百メートルくらい登った台地に、日本の田舎の小学校舎を思わせるような、横に長い二階建ての家が立っていた。これが実業練習所の本部とも称せられた建物であった。中に入ると中央に大きな階段があり、これを登って二階へ上るとヴァランダを兼ねた部屋があり、その部屋を挟んで東西に大部屋が二つあった。練習生が起居するのにこの大部屋が当てられたのである。

 家根があるので一応家という格好はついているが、一歩中に入ると総てが未完成のままであった。床などただ板が並べてあるだけで、釘で固定されていないので、歩く毎にバタバタと音がする、これが多勢のことだから可成り騒音となった。食堂も炊事場も便所も総てが未完成で不便この上なかったが、練習生の中で不服をいうものは一人いなかった。夜露が防げるだけでも儲けものだといったような顔をしていたのである。

 『草を踏んではいけない、ムクインにやられるから』とは誰も教えてはくれないし、注意もしてくれなかった。夜半についた一同は、道のぬかるみを避けて殊更選り好んで草むらを踏んで歩いたからたまらない、カンテラの下で荷物の整理を始める頃から、足、股等皮膚の弱い処がムヅムヅと痒くなり、遂に狂ったように掻きむしった。
 かくして上陸第一夜から、アマゾン生活に於て不快指数第一(ナンバー・ワン)といわれるムクインの洗礼を受けたのであった。

 だだっ広い所に板を敷いただけの大広間、柱の上に屋根を乗っけただけで四方は開けっ放し、壁もなければ壁に代る板張りもない広間とも部屋とも呼べない場所に適当にコルションを並べアマゾン初夜の身を横たえたのだが、ウトウトしてどのくらい時間が経ったか、突如としてスコール襲来、まずアマゾン大江に面する側から凄い勢で雨が横殴りに吹込んで来た為、大慌てでコルションを雨のかからぬ側に引張って行って一安心と横になる。軈(やが)て急に風の向きが変り、今度は折角コルションを敷き直した側から雨を吹込んで来てまた場所替え、コルションの濡れるのは諦め、兎に角もうくたくたに疲れ切った身体に毛布を捲いて寝入って了う。

 荷物整理や夜半のスコール、ムクイン等で、まどろむ暇もなく、何やら興奮した頭を冷すべく夜の白むのを待って前庭に出た。数歩踏み出して目を上げたら其処には白幕を張ったような朝霧にかすむ大アマゾン川が視界一杯に広がっていた。何という広々とした景観だろう! 何処が水平線か、対岸かわからない。川面はズッと天まで続いているようだ。上を見ても下を見ても、右も左も水ばかりである。一体、流れているのだろうか、流れているとすれば、両岸一杯の水が静かに移動しているといいたいような状景である。
 吾々はべレン市からパリンチンスまで数日間アマゾン河を遡航したので、船上でアマゾン河はいやというほど眺めてきているので珍らしくもないのだが、岸に立って眺めるアマゾン河はこの朝が初めてであった。まるで別のアマゾン河を初めて見たような感覚で、昨夜の不眠もムクインも忘れて、この茫洋たるアマゾン河の曙の景観に、或種の威圧さえ感じながらしばし佇んだのであった。》

 未開の地アマゾンの開拓最前線へと放り込まれた学生たちであるが、まるで修学旅行にでも来たかのような活気ある雰囲気が文中から漂ってくる。実は、高拓生のこの書生っぽい雰囲気はその後の厳しい開拓人生を何年経ても、失われることはなかった。
 これが、移民の人には見られない高拓生の特色ともいえた。筆者が、1970年代の後半にべレンの町へ転住してきた頃は第1回高拓生をアマゾンまで引率してきた越智栄を始め、まだ多くの高拓生が健在であった。ある時、越智の80歳の誕生日に招かれた。長男エンリッケ宅で催されたこの誕生日のお祝いに、べレン在住の高拓生の猛者たちが一堂に集まっていた。当時、皆70代後半の高齢者であった。

 彼らは、夜の更けるまで良く飲み大きな声で喋っていた。祝宴の終わりころ、全員が立ち上がり肩を組み何かの歌を放歌し始めた。今思えば、彼らの卒業した日本高等拓殖学校の校歌であった。
 「碧(みどり)稜なす大空に 金色の色照り映えて 霞に咽ぶアマゾンの 流れゆたけき朝ぼらけ 草踏み分けて岸に立つ 健児の胸に希望あり/溶々としてたゆみなく 水は揺らぎて四千余里 北ブラジルの中枢に 七大河川の合しては 大江に入る要地こそ わが学舎のある所」

 気宇壮大な歌詞がこうやって7節まで続いている。筆者はその頃、まだ30歳代であった。老人たちが、若者のように肩を組みあい声を張り上げ歌い続けている光景は圧巻であった。
 高拓生達は、苦しみにつけ楽しみにつけこの歌をアマゾンの開拓の空の下でいつも歌ってきたのであろう。彼らはきっと、高拓生としての矜持を死ぬまで持ち続けていたに違いない。

 
2010年1月4日付

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