【2011年新春特集】高拓生移住80周年②

写真:アマゾンへ向かう船上での第一期高拓生
アマゾン開拓への道 百万町歩の契約
 高拓第1回生が、ヴィラ・アマゾニアに第一歩を印した時から5年ほど時代をさかのぼり高拓生誕生までの経緯に触れてみよう。

 1926年12月、日本の実業家山西源三郎が南米での事業を興すためにリオデジャネイロにあった日本大使館を訪れた。山西は、商工大臣高橋是清の秘書官上塚司の紹介する粟津金六を訪ねてきたのだ。粟津は、大使館嘱託として働いていたがその後、サンパウロ州リンスの町で土地売買、コーヒー仲介や、各種事務の代理事務所を開いていた。
 山西の案内人となった粟津は、まだ大使館嘱託をしていたこの年の4月に田付七太大使に同行しアマゾン地方を視察していた。この事から、山西をアマゾナス州訪問へと誘った。
 隣州のパラーでは、鐘紡を主体とする福原調査団が日本人移民の可能性を探るための調査をすでに開始していた。アマゾナス州政府もパラー州と同じように、日本人による州内の開拓を望んでいたのだ。

 山西、粟津の両者は、エフェジェニオ・デ・サーレス州知事と面談し27年3月11日、百万町歩の州有地の無償譲与即ち、コンセッション契約を結ぶことに成功した。契約はオプション(選択権)式で、3か所に所在する州有地のうちから合計百万町歩を2か年以内に選定しその後、1年以内に開拓事業の会社を地元に設立しなければ無効となる内容のものであった。
 それにしても、連絡くらいは先に入れただろうが見知らぬ日本人が不意に行ってよくそんな大規模な契約ができたものである。これは、州側が日本人移民を熱望しておりパラー州が一足先に日本人移民受け入れで動きが始まったことと、粟津は前記したように田付大使に随行しエフェジェニオ州知事とすでに会っていた事が幸いしたのだろう。
 山西は、日本帰国後にアマゾン開拓のための会社設立を目指した。しかし、日本国自体が当時経済危機を迎えており、山西が自費出版してまでアマゾンでの新事業を紹介し投資家を募っても、そんな話に乗ってくる人はいなかった。

 やがて、困り果てた山西は上塚司のもとを訪れる。その時点から、上塚司がアマゾン開拓と終生かかわり合いになってくるのだ。
 熊本県出身の上塚司は、ブラジル移民の父とも呼ばれる上塚周平と同郷で周平は14歳違いの従兄にあたる。上塚司は、神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業。(山西に紹介状を書いた粟津金六は、上塚の大学の後輩でやはり熊本出身だった)。
 満鉄(南満州鉄道株式会社)で調査畑の仕事に就き、1920年(大正9)に熊本5区から衆議院議員に立候補し当選。当時、30歳史上最年少の議員誕生であった。同時に、満鉄を退社している。
 4年後の総選挙では落選したが、縁あって大物政治家高橋是清の秘書官となっている。

 28年3月、開拓事業の会社設立が思うように行かず切羽詰まった山西は上塚のもとを訪れ、アマゾン開拓計画の熱い思いを彼にぶつけコンセッション契約の権利を彼に委託する申し出を行った。
 上塚はこの時、高橋是清の大蔵大臣就任にともない同大臣秘書官の要職にあった。従兄の周平や、後輩の粟津を通じてブラジルとは少なからず関係のあった上塚は、この開拓事業に関心を抱き上司であり恩人でもある高橋是清に相談した。
 高橋もかつて、ペルーの銀山開発事業に手を出し一財産を失うという苦汁をなめている経験者であった。それだけに、海外への投資事業が並大抵の物でないことを誰よりも知っていた。高橋は、アマゾン開拓へ逸る上塚の気持ちを察しその旨忠告した。
 しかし、上塚のアマゾンへの思いはすでに固まっておりその熱意に逆に高橋が折れ、上塚へのバックアップを約束してくれたのだ。

(つづく、以下は4日付から社会面で6回連載します)

2010年1月4日付

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