【移民109周年】ブラジル力行会創立100年 重要性増す研修生派遣事業

ブラジル力行会創立100年 重要性増す研修生派遣事業
(右)生涯を通じて「霊肉救済」」事業に打ち込んだ日本力行会創立者・島貫兵太夫牧師(左)海外学校を開設し、「コーヒーより人を作れ」を説く永田稠二代会長
ブラジル力行会創立100年 重要性増す研修生派遣事業
アリアンサ移住地選定査察団一行。左より2人目多羅間鉄輔バウルー領事(のち永住)、中央は輪湖俊午郎、とその右は北原地価造

 ブラジル力行会は、今年2017年で創立100周年を迎えます。その間、日本力行会の南米開拓講習所で移住教養とキリスト教の教育を受けて、ブラジルへやって来た力行会会員は戦前506人、戦後1294人、合計1800人にのぼります。キリスト教精神によって作られた海外移住奨励の団体である力行会とは何か。ブラジル力行会の歴史に触れる前に、日本力行会の生い立ちについて述べてみましょう。(文=ブラジル力行会100周年記念誌編纂委員会 古賀捷則)

 日本力行会は1897年、キリスト教改革派教会の島貫兵太夫牧師が、地方から東京にやって来た貧しい苦学生の救済を目的に、自宅を開放して創設しました。この力行会の「力行」という言葉は、苦労しながら学問をするという、中国の言葉「苦学力行」に由来すると述べています。

 生涯を通じて「霊肉救済」事業に打ち込んだ日本力行会創立者島貫兵太夫牧師。島貫牧師は、苦学生の独立自尊の念を養うため、色々な仕事を都合し、夜学へ通わせ、不足分は牧師を務める神田教会の報酬から補っていましたが、彼らを教導する牧師の人間的魅力により、苦学生の数は増えるばかりで、経済的に行き詰まってしまうのは明らかです。そこで島貫牧師はアメリカでは苦学生の世話をどうしているかを調べるため現地へ行き、苦学生だけではなく一般の人たちにも、将来の可能性のある国であることを目のあたりにして、力行会の中に渡米部を開設し、必要な英会話や教養を身につけさせて、青年たちを北米へ送り出すことに力を入れるようになりました。

 このように、生涯を通じて「霊肉救済」事業に打ち込んだ島貫牧師の活動は、心の救済だけではなく、人々の生活、つまり肉の生活も支援しなければならないという考え方に立っています。

ブラジル力行会創立100年 重要性増す研修生派遣事業
ブラジル力行会は「子孫の繁栄は教育にあり」とし、アルモニア学生寮建設を決議。1951年、永田稠会長の臨席のもとに、学生寮の上棟式を行う

 日本力行会はやがて海外事情に通じた渡米移住促進団体として全国に知られるようになり、渡米促進事業はますます拍車がかかろうとしている時、今度はアメリカで排日運動が次第に高まり、対米移民制限に関する協約である日米紳士協定が1908年2月発足しました。狭い日本から広い海外に進出しようとする若者の渡米熱は急速に冷め、海外移住への関心は南米へ向けられるようになります。

 こうして1908年の4月18日にブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」が日本を出発。南米大陸への大量移民の時代が幕を開けることになりました。

 その頃、リオ・デ・ジャネイロには、すでに数人の力行会員が住んでいました。その中の一人、大島七郎会員はイギリス船の船員になり、途中で船から落ち、九死に一生を得て、1911年にリオに上陸した人です。島貫会長は、大島会員をブラジルの日本力行会初代支部長に任命しましたが、大島会員は2年後にアメリカへ再移住したため、1906年にブラジルへ移住していた、鹿児島地裁裁判所判事の隈部三郎弁護士の長女、隈部光子会員を支部長に任命しました。しかし、伯国支部としての活動の記録はまったく残されていないので、当時をブラジル力行会の歴史が始まる前の神代の時代とも呼ばれています。

 1913年9月6日、島貫兵太夫初代力行会会長は、47歳の若さで病いに倒れ、渡米中であった永田稠氏が遺命により、翌年の1914年に二代会長に就任します。6年ぶりに帰国した永田会長の前には、大きな難題が横たわっていました。それは大講堂建設による財政破綻と日本力行会の再建です。「力行会は、単なる社会慈善団体ではなく、世界的視野を持つ移民教育の推進力になりたい」と呼びかける永田会長の周りには、新しい人脈が構築されていきます。教育界に大きな影響力を持つ沢柳政太郎博士や新渡戸稲造博士を力行会の顧問に迎え、力行会は再び活気を取り戻し、永田会長は、海外移住事情に精通する第一人者となりました。

 永田会長は、沢柳政太郎博士から、文部省の海外子女教育実情調査の推薦状をもらって、1920年3月初めてブラジルのイグアッペを訪れ、後にアリアンサ移住地の先駆者といわれる永田稠、北原地価造、輪湖俊午郎の三氏がここに勢ぞろい。利益を目的とした移民会社に頼らない、自営農民のための移住地建設を目指すドラマが、ここから始まります。

ブラジル力行会創立100年 重要性増す研修生派遣事業
ブラジル力行会館で説明に聞き入る、日本への派遣研修応募者。1970年から始まった派遣研修制度により日本へ152人を送った

 サンパウロ市から北西に600キロ離れた現ミランドポリスの大原始林に、1千家族の日本人移住者が1万アルケール(1アルケール=2・4ヘクタール)を開拓するという壮大なドラマです。それ以前は出稼ぎ移民が主流でしたが、永住目的のアリアンサ移住者の中には、ピアノやバイオリン、テニスや野球道具、さらには天体望遠鏡まで担いでやってきた人もいました。アリアンサは、武者小路実篤の「新しき村」建設を夢見た弓場勇農場、「芸術すること、祈ること、耕すこと」の農民バレー団ユバや、歌人岩波菊治、俳人佐藤念腹など多くの芸術家を生んだ、日系ブラジル文化の発祥の地としても知られています。

 さて、ブラジル力行会の創立は1917年となっていますが、これは、日本力行会が全国の支部長を決定した時に、隈部光子会員を伯国支部長と命名されていることがあとで解かり、戦後開かれたブラジル力行会の理事会で、1917年を創立記念の年に定められました。実際には、隈部光子会員がブラジルに移住した1906年から力行会創立年の1917年までに、アリアンサ移住地建設の立役者輪湖俊午郎氏と北原地価造氏、サンパウロ市コンデ街の本屋遠藤常八郎氏、文協の前身、教育普及会会長で、日伯新聞の主事で終戦時に臣道連盟のテロの犠牲になった野村忠三郎氏など16人の会員が在住していました。

 ブラジルへの力行会員の本格的な移住は、1920年頃からです。アメリカの排日運動を逃れてブラジルへの再移住者・井原恵作団長が率いるブラジル開拓組合一行が着伯した1922年から、にわかにブラジル力行会の活動が活発になってきました。北米の排日運動の高まりにより、在米日本人は朝鮮や満州への再移住に走る人々が増えますが、永田会長は彼らに南米への転住を勧め、井原氏のほか、輪湖俊午郎、加藤保松、野上豊、宮尾厚氏などがブラジルへ再移住しました。

 サン・ジョゼ・ドス・カンポスに入植した井原氏は、会員の世話をしたり力行会の体制作りに献身的に働き、周囲の厚い信頼を得て、1923年から55年まで32年間にわたってブラジル力行会の会長を務めました。

 戦前のブラジル力行会員は、アリアンサに最も多く、北パラナ、レジストロ、やがてサンパウロ市を中心とする集団が大きくなっていきます。アリアンサには力行農園と渡辺農場の南米農業練習所が設置され、細川末男氏が1926年、宮尾厚氏が1928年にそれぞれの責任者となり、日本力行会から送られてくるおよそ400人もの青年の面倒を見ました。中には過酷な状況に耐えられず、サンパウロ市へ出てきて、コンデ街の遠藤常八郎氏、ジャグアレの加藤保松氏、リベイロン・ピーレスの野上豊氏らの御厄介になる会員もいました。

 全ブラジルを一丸とするブラジル力行会が成立するきっかけとなったのは、終戦後のアルモニア学生寮の建設からです。それまでは、同じ釜の飯を食った仲間の親睦会が散発的に開かれる程度でした。1945年9月7日、戦後初めてのブラジル力行会総会が、サンパウロ市ピニェイロスの聖公会で開かれ、それから毎年開催されるようになりました。アルモニア学生寮の建設が決議されたのは1946年の総会でしたが、日系社会における勝ち組負け組の抗争が激しく、日本人の集会を開くのは非常に危険な時期でした。敗戦により海外にいた軍人と民間人500万人が一度に引き揚げる、未曾有の危機のなかの日本。帰国の夢が断たれた移民は、ブラジルを定住の土地と決め、自分の骨をこの大地に埋めることを覚悟し、子供たちの将来のために教育を第一義とすることを悟ることでした。

 1947年の総会で学生寮建設委員会が発足。翌年の1948年にサン・ベルナルド・ド・カンポに17000平方メートルの土地を購入し、1953年、「和」を掲げたアルモニア学生寮が落成しました。当時は移住者の経済的基盤はまだ不安定な時期で、建設資金の募金運動は簡単ではなく、井原恵作、輪湖俊午郎、野上豊、二木秀人、破魔六郎、村上真市郎、森晋平、本田慶三郎氏ら力行会リーダーの心労は言葉で言い尽くせないものでした。日系人初の州高等裁判所の判事となった渡部和夫法学博士も、大学進学前にアルモニア学生寮で勉学に励んだ人の一人です。2013年に創立60周年を祝ったアルモニア教育文化協会が経営するアルモニア学園は、400人の学生を抱え、ブラジル地域社会と関わりを持ちながら、日本文化の継承を試みる認知度の高い学校として注目を集めています。

 アルモニア学生寮建設と同じ頃、ブラジル力行会は、4Hクラブ運動にも積極的に参加しました。4Hとは英語で、腕、頭、心、健康の頭文字を取ったもので、アメリカで4H運動を学んだ永田稠会長が、ブラジルへ運んできました。永田会長は1951年7月からおよそ7カ月間、100回にわたって地方を巡回公演を行ないました。この4H運動は、ブラジル力行会だけではなく、サンパウロ総領事館、コチア・南伯両産業組合など、日系団体の幅広い賛同と支援を得て、農村青年教育運動が進められました。

 ブラジル力行会の会長は井原恵作、破魔六郎、村上真市郎、森晋平、山内安房の諸氏が続いて、アルモニア学生寮建設と4Hクラブ運動という、ブラジル力行会の大きな事業が一段落する頃、ブラジル力行会も他の日本人会と同じように、会員の減少と老齢化が急激に進みます。1969年にブラジル力行会の会長に就任した林寿雄氏、続いて永田久氏、そして現在の岡崎祐三氏は、真正面からこの問題に取り組むことになります。日本の高度経済成長により1960年中頃から新しい移住者の来伯が見込めなくなって以来、会員子弟の日本への研修生派遣事業を今後のブラジル力行会の重要な事業と位置づけることにしました。

 最初はブラジルの大学で学ぶ会員子弟に学費を補助する奨学生制度。続いて、日本力行会を通じて、日本の企業に技術研修生を派遣する事業。そして現在まで続いている日本力行会の力行幼稚園研修制度と日本語を習得するための南米開拓講習制度です。1970年から始まった種々の派遣により、ブラジル力行会は日本力行会の支援を得て、今日まで、152人の研修生を日本へ送りました。

 2016年8月、リオで南米初のオリンピックが開かれました。開会式には、生命の誕生から現在までのブラジルの歴史が表現されました。演出の進行に伴い、白い布に日の丸が施された衣装をまとった日本人移民が現れて多民族国家のブラジルを表現し、テレビを通じて、世界中が、国内人口の1パーセントにも満たない日系人の存在を知ることとなりました。中国のメディアまでも「豪華絢爛な演出にブラジルの歴史、文化、社会が盛り込まれた開会式において、非常に明らかな日本のエッセンスが表現された。一世紀におよぶ大量の移民により、現在ブラジルは世界で最も日系人の多い国となっている。ブラジルと日本との関係が深いのは、無知で愚昧な中国の清朝政府が、ブラジルという国を知らなかったからだ」と日伯間の深い繋がりに驚きをみせました。

 他の国が羨むほどの、日本人移民がおよそ110年かかって築いた貴重な財産を、今後どのように生かしていくか。試練の節目にある、日伯交流の一端を担うブラジル力行会の研修生派遣事業は、その重要性が増していくようです。

2017年6月24日付

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