【移民109周年】和歌山県民移住100周年 1416家族5819人が渡伯

和歌山県民移住100周年 1416家族5819人が渡伯
2014年に行われた在伯和歌山県人会連合会の創立60周年記念式典
和歌山県民移住100周年 1416家族5819人が渡伯
和歌山県人会館の外観

 和歌山県からブラジルへの移民が開始され、今年で100年を迎える。同県からは戦前戦後を通じ、これまでに1416家族5819人が移住。松原植民地を計画した松原安太郎をはじめ、同県からの移民はそれぞれに日系社会、伯国社会の発展に貢献してきた。ブラジル和歌山県人会連合会(谷口ジョゼ眞一郎会長)では節目の年を祝い、10月29日にサンパウロ(聖)州議事堂で100周年式典を開催することになっている。式典には母県はもちろん、ブラジル内外の県人会支部や会員を招待。盛大に祝うことを予定している。

◆移住の始まり

 和歌山県では、19世紀中盤頃からハワイやアメリカ本土、カナダなど北米大陸の各国、中南米やアジア諸国、オーストラリアなどに多くの移民を送り出した。ブラジルへの移民開始は笠戸丸移民から遅れること9年後の1917年。個人や数家族が同県から伯国へ移住した。

 しかし、1942年第2次世界大戦に伯国が参戦したことにより、日本とブラジルの国交は断絶。日本からの移民送り出しも停止した。戦後、51年に国交が回復。53年には戦後初となる第1回和歌山県移民22家族112人が伯国へ渡った。

 その後も同県からの移住は続き、戦前戦後を通じて1416家族5819人が渡伯。県系人とその子弟は現在、約4万人に及ぶと推定されている。

和歌山県民移住100周年 1416家族5819人が渡伯
和歌山県移民が働く様子(提供=和歌山県人会)

◆県人会の発足

 母県からの移住振興を目的に、54年4月に県人会が発足。竹中儀助氏が初代会長を務め、以来過去6人の会長が県人会を牽引してきた。2015年には同県人会初の2世会長となる谷口現会長が就任。新風をもたらした。また、04年度まで会長を務めた地坂満夫5代目会長は、05年に旭日双光章を授章している。

 1974年には母県からの援助を受け、聖市アクリマソン区の現在の場所に会館を購入。創立45周年となる99年に改築を行い、会員活動のさらなる活発化を促進した。近年は日本祭りや屋台祭りで販売する「関西風お好み焼き」が人気となっており、同県人会の代名詞となっている。2014年には創立60周年を迎え、次世代の会長、会員育成を命題に活動を行っている。

◆松原移民

和歌山県民移住100周年 1416家族5819人が渡伯
松原安太郎(左)とバルガス大統領(中)(提供=ブラジル日本移民史料館)

 同県からの移民でとりわけ有名なのは、松原安太郎氏だろう。同県日高郡岩代村(現みなべ町)出身で、一度伯国を視察に訪れた後、1918年に移住。パウリスタ線のサンタ・カタリーナ耕地に入植し、農業の傍らポルトガル語学習に励んだ。

 移住して3年後には農業に加え、通訳業や新移民の世話役なども開始。28年には聖州マリリア市に広大な農地を購入し、拠点を同市に定めた。同市の労働党支部長との交流をきっかけに、松原氏はゼツリオ・バルガス大統領の選挙運動資金を援助する役割を果たす。ここでの大統領への資金提供が、後の松原植民地誕生への重要な布石となる。

 松原氏は当時の農業形態の変化などもあり、日本人移民導入計画を考えていた。バルガス大統領にその案を打診すると、大統領はすぐに承諾。民間という立場でありながら大統領の親書を携えた松原氏は、52年に訪日し、日本政府関係者協力のもと、移民送り出しの準備に入った。

 53年に前述の22家族112人の同県民が南マット・グロッソ州のドウラードス連邦植民地、通称「松原植民地」へ移住。しかし、移住前に聞かされていた話とは異なり、入植地は整地されていないという有様に移民らは憤慨した。

 移民たちの不満は松原氏の耳にも入り、植民地整備のために奔走するも、頼りにしていたバルガス大統領が失速。自身にもバルガス大統領の政敵の暗殺未遂事件に資金提供をしたという疑惑がかけられてしまう。

 この頃から松原氏の体調は悪化。バルガス大統領の訃報を知った際には脳溢血で倒れ、半身不随となってしまう。その後、マリリアの所有地などを処分し、帰国を決意。55年に日本へ帰国した。

 帰国後の56年には戦後の日本人移民策再導入の功績が評価され、日本政府から黄綬褒章が授与される栄誉に預かる。それから5年後の61年12月5日、激動の69年の生涯を閉じた。

◆中井繁次郎

 もう一人の有名な同県移民と言えば、サントス日本人会の初代会長を務めた中井繁次郎氏だ。中井氏は両親、妹らと共に1918年に和歌山県から「博多丸」で移住。聖州内のコーヒー園に入植した。しかし、契約終了前に一家で夜逃げ。漁師をしていた友人を頼ってサントス市へと舞い戻った。

 同市へ戻った中井一家だったが、第二次世界大戦中の43年7月には、日独伊移民らへ24時間内の同市内からの強制退去命令が下った。聖市の移民収容所に戻された後、中井一家は漁師仲間の親類がいる聖州プレジデンテ・プルデンテ市へ居を移すこととなった。

 戦争が終わり、中井氏は街の様子を知るためサントス市へ。すでに日本人の数家族が戻ってきていることを知り、中井一家も同市へ引き返すことを決めた。

 その後中井氏は、52年に発足したサントス日本人会の初代会長に就任。運動会や敬老会のイベントを行い、市内の日本人移民らの結束を深める役割を果たしてきた。晩年は趣味のカラオケに没頭。大会でトロフィーをもらうほどの実力だったという。

◆100周年記念式典

 今年10月29日に予定されている県民移住100周年記念式典には、母県から県知事や慶祝団が来ることをはじめ、ペルー、アルゼンチン、メキシコ、アメリカの県人会からの来賓が出席する予定。また、母親が同県新宮市出身という羽藤ジョージ聖州議の助力で、式典は聖州議事堂で開催し、式典直前の同日午前9時からは追悼法要も行われる。さらに、同県移民の歴史に関する記念誌を日伯2カ国語で製作することを予定している。

 100周年式典に向け谷口会長は「100周年は100年に一度。盛大にやりたい」と気合を見せている。(参考文献=ブラジル日本都道府県人会連合会30年誌、40年誌、和歌山市民図書館移民史良質年表、海外移民史料館研究ノート「和歌山県における移民をめぐる取り組みと今後の展望」東悦子和歌山大学教授、「松原安太郎の生涯」志村啓夫、サンパウロ新聞)

2017年6月24日付

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