【移民109周年】58日間の船旅の様子を記述 同船者会発起人の登地正章さん=チチャレンカ号

58日間の船旅の様子を記述 同船者会発起人の登地正章さん=チチャレンカ号
昭和32(1957)年3月17日、神戸出帆伯国行移住者渡航記念撮影(当時の神戸移民あっせん所前で、提供写真)
58日間の船旅の様子を記述 同船者会発起人の登地正章さん=チチャレンカ号
第3回同船者会で披露された「チチャレンカ号」の模型(登地さん所有)

 今年、渡伯60周年の節目の年を迎えた「チチャレンカ号」同船者会の発起人の一人である登地(とじ)正章さん(68、和歌山)は、「人生振り返り」と題して自身の生い立ちから、渡伯の経緯や、ブラジルでの生活などを記述している。その中で、1957年3月17日の神戸港出港から同5月14日サントス港到着までの58日間の「チチャレンカ号」の船内の様子や、各国上陸地での出来事などにも触れている。その内容を「人生振り返り」の中から抜粋して紹介する。

 1957年3月17日夕刻、オランダ船「チチャレンカ号」で神戸港を出港した。桟橋には大阪の父方の親戚が見送りに来てくれ、全員泣いていた。幼かった私はなぜ泣いているのか理解できなかった。今生の別れの意味合いがあったと判ったのは、かなりあとのことであった。出港に先立ち、音楽隊が桟橋で「軍艦マーチ」と「蛍の光」を演奏してくれたのは忘れられない思い出である。

 当時、南米への移住航路は日本船(大阪商船)の場合、まず神戸を出て横浜へ寄り、関東以北地方の移住者を乗せ、太平洋東回りで米国のロスアンゼルスを経てパナマ運河から大西洋に抜け、ベレン、レシフェ、リオ、サントス、ブエノスアイレスというコースだった。しかし、オランダ船(ローヤル・インターオーシャン社)の方は逆の西回りで、まず横浜スタートで神戸、那覇、香港、シンガポール、インド洋上のモーリシャス島、アフリカ大陸のマプト、ダーバン、ポートエリザベス、ケープタウン、そしてリオ、サントス、ブエノスアイレスというコースだった。

 サントスまでは東回りで約40日、西回りで約60日と、西回りの方が1・5倍長い乗船期間だったが、その分寄港地が多く、また上陸できたので、船旅としては楽しかったと思う。移住者は当然コースを選ぶことはできず、渡航日のタイミングで日本船かオランダ船乗船となった。「チチャレンカ号」船内には何らかの理由で、当初予定していた数日前の横浜出港の東回り「さんとす丸」に乗船できなかった家族もいた。

58日間の船旅の様子を記述 同船者会発起人の登地正章さん=チチャレンカ号
南アフリカのダーバンに上陸した際、「チチャレンカ号」前で記念撮影する乗船者たち(提供写真)

 神戸を出て最初の寄港地は那覇であった。当時、沖縄は米国の施政下であったため上陸できなかったが、乗船した移住家族もあった。しかし、既に横浜で乗船していた沖縄出身者も少なくなかった。ところが、那覇で船の機関が故障し、その修理のため3日間停泊した。次の寄港地は香港である。香港はその後、港湾が整備され、大型船も直接接岸できるようになったが、当時はそれができず、港内の沖に停泊して、ボートでの上陸であった。私は香港で、生まれて初めてバナナを食べた。生まれ故郷の八百屋では、今で言えば賞味期限の切れた皮が黒くなったものでも(安くもなく)堂々と売られていたのを憶えている。初めて食べたバナナの味は、「こんなものか」と思ったほど期待外れだった。

 次の寄港地シンガポールへ向かう途中の南シナ海で、越冬から帰国する南極観測船「宗谷」と遭遇した。無線で交信していたのだろう、「宗谷」と遭遇する情報はすぐ船内に伝えられ、私も甲板で「今か、今か」と気をもんだ。「宗谷」は「チチャレンカ号」の船尾側を横断するように通過し、乗組員の皆さんが我々の方に向かって手を振ってくれたのも忘れられない思い出である。

 シンガポールでは寄港同時期に日本の貨物船「浅間丸」も停泊しており、その乗組員と我々「チチャレンカ号」の移住者の青年たちとで野球の親善試合が行われ、我が移住者チームが勝ったと聞いた。

 シンガポールの後はインド洋航行となり、このころから船内で各種の慰安行事が行われた。赤道祭や演芸会が開かれ、私も友達とハーモニカ演奏で出演した記憶がある。

 また、船内ではよく当時の流行歌のレコードをかけており、藤島恒夫の『さよなら港』、春日八郎の『お富さん』、青木光一の『早く帰ってコ』、美空ひばりの『波止場だよお父っさん』、『あの丘越えて』等をよく聞いた。

 モーリシャス島を経由してモザンビークの首都マプト(当時はロレンソ・マルケス)からアフリカ大陸となり、続いて、南アフリカのダーバン、ポートエリザベス、そしてケープタウンに寄港した。ケープタウンを出るといよいよ次はリオとなるが、このインド洋から大西洋に抜ける希望岬を通過する時は荒波で船が揺れたことも忘れられない。

 リオに入港すると一部の移住者の下船があった。その中には、当時ブラジル最大の日本人経営農場であったピンダモンニャンガーバの「鐘ヶ江農場」へ入植する船内学校の私の受け持ち先生の家族もあった。

 そして、58日間の船旅を経て、5月14日サントスに着いた。アルゼンチン、パラグアイ移住組家族はブエノス下船のため、船内に残った。

2017年6月24日付

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